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「下関は今も大洋応援しちょるが、大洋はハア下関忘れちょるけぇのぅ」 下関、クジラ、ベイスターズ

豊浦彰太郎Baseball Writer
ある年齢以上の下関市民にとって、クジラ館は心の故郷なのだ。

3月10日、山口宇部空港に降り立つとやはり予報通り雨だった。DeNA ベイスターズが発祥の地下関で当時のホエールズのユニフォームを着用し、記念試合を行うというのに・・・あゝ無情。

山口宇部空港に降り立つと激しい雨だった・・・
山口宇部空港に降り立つと激しい雨だった・・・

中止を知ったのは、空港から球場最寄の新下関駅に向かう途中のJR宇部駅での乗り換え待ちでのことだった。普段、散々人工芝のドーム球場に毒付いているが、やはりこの国には必要なものだと認めざるを得ない。

駅構内の無情の中止通知
駅構内の無情の中止通知

試合が行われない、とわかっていても球場には行ってみないと気が収まらない。すると、やはりぼく同様に「取り敢えず来るしかなかった」ファンが恨めしそうに空を見つめていた。

中止と分かっていてもやって来ずにはいられない
中止と分かっていてもやって来ずにはいられない

今回の企画でベイスターズは下関で誕生したことを知った若いファンも多いのではないか。下関はホエールズ / ベイスターズと長い間片思い関係にある。

昭和38年生まれのぼくの下関での少年時代、大洋ホエールズは巨人にかなり離されてはいたが、この街で2番目に人気のあるプロ野球チームだった。それもそのはず、創立当時の大洋の本拠地は下関で、セ・リーグの最初の試合はこの地で行われたからだ。周囲のオトナ達は「下関は今も大洋応援しちょるが、大洋はハア下関忘れちょるけぇのぅ」と苦笑していた。

しかし、大洋は決して下関を忘れている訳ではなかった。かつては毎年のように、下関でオープン戦を行なっていた。会場はネーミングライツまで付いてしまった現在の下関球場ではなく、30年以上も前に取り壊された旧下関球場だった。

旧下関球場跡地、現在は病院になっている
旧下関球場跡地、現在は病院になっている

ここは今思い出してもひどい球場で、夜間照明設備なしは当時のスタンダードとして致し方ないが、でこぼこの外野は芝生というより雑草でフェンスはコンクリート剥き出し、一箇所しかないトイレはなんと選手と観客の兼用だった。

ぼくはある年の大洋対ロッテのオープン戦で、イニング間に用を足しに来たロッテ監督のカネやんとサイド・バイ・サイドだったことがある。横に少年ファン(ぼくのこと)がいると、排泄後「うおーっ、スッキリした」とおどけてくれた。こんなところでも、サービス精神旺盛だった。

駐車場後方の緩やかな登り坂は一塁側スタンドへのアプローチだった
駐車場後方の緩やかな登り坂は一塁側スタンドへのアプローチだった

歴史的には源平合戦や幕末維新の舞台として知られる下関は、ふぐの街だ。大げさに言えば、他の都市で寿司屋(回転しない方)があるように、下関ではふぐ料理屋がある。実際、ぼくの実家もふぐ料理屋だった。(下関では、「ふぐ」は「ふく」と言うと流布されているが、これは違う。ぼくは下関の人たちが「ふく」と発音するのを聞いたことがない。同様に「おいでませ」と言う人に出会ったこともない)。

下関の築地いや豊洲か唐戸市場 、「ふぐ寿司」なんてのも立ち食いできる
下関の築地いや豊洲か唐戸市場 、「ふぐ寿司」なんてのも立ち食いできる

一方で、下関はクジラの街でもあった。それはかつては捕鯨を収益の柱とした林兼産業(現マルハニチロ)のお膝元でもあるからだ。ぼくの世代では、小学校の給食でしばしば林兼提供のマルハソーセージが出てきた。

現在の下関のシンボルは、あの安倍晋三サンが毎年年始の総会を行う海峡タワーかもしれないが、下関を離れて40年近くになるぼくにとって心のシンボルはクジラ館だ。これは関門海峡を臨む小さな丘の上に立っている。現在は単なるモニュメントでしかなく立ち入り禁止なのだけれど、かつてここはクジラ博物館だった。館内には捕鯨や捕鯨船に関する展示物に加えて、各種のホルマリン漬けがあった。それはクジラの目玉!だったり、嬰児!!だったり、回虫!!!だったりした。下関を離れ10年が経過した頃、新婚だったぼくはカミさんをそこに連れて行ったことがあるのだけれど、彼女はそれらを見て卒倒しそうになった。

かつては博物館だったが、残念ながら今は立ち入り禁止のクジラ館
かつては博物館だったが、残念ながら今は立ち入り禁止のクジラ館

とにかく言いたいのは、下関はクジラの街でもあるということだ。

しかし、下関は野球の街であることも強調しておかねばならない。

前述の通り、今年70周年を迎えたベイスターズ発祥の地であり、セ・リーグ初の公式戦が行われた場所でもある。そして、良くも悪くもプロ野球の歴史を語る際にスルーすることができない池永正明の出身地だ。昭和38年には、彼の快刀乱麻の投球で下関商業は春の選抜で優勝、夏は準優勝を成し遂げた。左胸に大きなSの文字をあしらったシモショーのユニフォームは全国に知れ渡り、下関の野球少年たちの憧れになった。かく言うぼくも少年時代はシモショーの野球部に入りたいと思ったのだが、シモショーに入るにはぼくの偏差値はチト高すぎたし、野球のウデは逆に足らなかった。

池永正明を輩出した下関商業高グラウンド
池永正明を輩出した下関商業高グラウンド

今回、下関クラシックが企画されたことの背景には、NPB各球団が「歴史は商売になる」ということに近年ようやく気づいたことが挙げられる。オールドファンは懐かしむし、若い層にも復刻版のユニやグッズは良く売れる。ぼくも雨の下関球場の特設テントのショップで散財してしまった。

「下関は今も大洋応援しちょるが、大洋はハア下関忘れちょるけぇのぅ」

この一途な想いは、21年前にベイスターズが日本一になった際に下関でもパレードを行った(とうの昔に下関を離れたぼくは見ていない)際に報われたのだけれど、このことは全国的な注目は集めなかった(下関での優勝パレードは、三原監督で日本一になった昭和35年にも行われている)。

しかし、SNSの時代になった今回はベイスターズの上手なマーケティングもあり、ちょっとしたバズになっていただけに、今日の中止は残念でならない。

「下関は今も応援しちょる」ことを全国のファンに知ってもらう良い機会だっただけに。

「ぶちうまい」すごくニュアンスがよく伝わる下関弁だ
「ぶちうまい」すごくニュアンスがよく伝わる下関弁だ

撮影は全て豊浦彰太郎

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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