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WSを戦うドジャースとアストロズ、36年前にはともにナ・リーグ西地区所属ながらプレーオフで対戦

豊浦彰太郎Baseball Writer
1981年地区シリーズでの対戦では初戦でノーラン・ライアンが完投勝利を飾った。(写真:ロイター/アフロ)

2017年MLBワールドシリーズは、ドジャー・スタジアムで現地時間10月24日に幕を開ける。ドジャースは29年ぶりの檜舞台で、アストロズはワールドシリーズ自体は2005年以来2度目だが、ア・リーグ球団としては初の出場だ。1962年に誕生してからずっとナ・リーグ所属で、2013年にア・リーグに編入されたからだ。アストロズは、1903年に始まったワールドシリーズの歴史上初の両リーグから出場した球団になるわけだ。

同球団はア・リーグ西地区に移ってくる前はナ・リーグ中地区所属だったが、1993年までの東西2地区制時代は西地区だった。したがって、当時ドジャースは同地区ライバル球団だったわけで、公式戦では頻繁に対戦していた。

実はこの両球団は1度だけポストシーズンで対戦している。それは1981年の地区シリーズだった。「2地区制の当時になぜ地区シリーズが?」と怪訝に思われる方もいらっしゃるだろう。

理由は、そのシーズンは選手会のストライキで6月12日から7月30日まで中断されたことだ。開催試合数が大幅に減ったことによる減収の被害を受けた(自業自得だが)経営側と選手組合は、ストライキ終了に伴うシーズン再開に当たり、中断前を前期、再開後を後期とする「2シーズン制」を採用。前期、後期1位チーム同士による地区優勝決定戦、文字通りの地区シリーズを開催したのだ。

この急造2シーズン制は現場や良識派ファンには悪評だった。球団間で同一半期の試合数がまちまちだったし、同一球団でも前期と後期の試合数は異なっていた。また、ナ・リーグ東地区では、通年で最高勝率だったカージナルスが半期単位では一度も「優勝」していないため、プレーオフに出場できないという事態も発生した。

一方、スト突入時に首位だった球団はすでにプレーオフ出場権を得ていたため、後半戦はモチベーションが十分ではなかった。ナ・リーグ西地区では、前期は彗星のように現れたフェルナンド・バレンズエラの大活躍もあり36勝21敗で1位だったドジャースは、後半は27勝26敗で6球団中4位と失速した。一方、前年オフにドジャースのエースドン・サットン(その後殿堂入り)を獲得し、この年多くの専門家が優勝候補に挙げていたアストロズは、ストまでは28勝29敗で地区3位と躓いたが、後半は地力を発揮し33勝20敗で1位となった。

10月6-7日にヒューストンで行われた第1-2戦はアストロズが連勝した。初戦はノーラン・ライアンが完投勝利。ドジャースの先発バレンズエラも好投したが涙を呑んだ。第2戦も手に汗握る投手戦となったが、延長11回にアストロズがサヨナラ勝を決めた。

しかし、勝負は下駄をはくまでわからない(It ain’t over, til it’s over.)。移動日を挟んで舞台をLAに移すとドジャースが3連勝(この頃は2-2-1ではなく、2-3のフォーマットだった)。大逆転でこのミニプレーオフを制し地区優勝を決めた。勢いに乗ったドジャースは、リーグ優勝決定シリーズで東地区のエクスポズを破り、ワールドシリーズ進出を決めた。そして、1977-78年に連続で煮え湯を飲まされたヤンキースを4勝2敗で下し、ブルックリン時代と併せて通算4度目の世界一に輝いたのだ。

アストロドームを本拠地としレインボーユニに身を包んだこの年のアストロズではライアンが君臨。一方のドジャースでは、投ではバレンズエラ、打では今季地区シリーズ終了後にナショナルズ監督の座を追われたダスティ・ベーカーが中心だった。

Baseball Writer

福岡県出身で、少年時代は太平洋クラブ~クラウンライターのファン。1971年のオリオールズ来日以来のMLBマニアで、本業の合間を縫って北米48球場を訪れた。北京、台北、台中、シドニーでもメジャーを観戦。近年は渡米時に球場跡地や野球博物館巡りにも精を出す。『SLUGGER』『J SPORTS』『まぐまぐ』のポータルサイト『mine』でも執筆中で、03-08年はスカパー!で、16年からはDAZNでMLB中継の解説を担当。著書に『ビジネスマンの視点で見たMLBとNPB』(彩流社)

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