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普通の言葉だけで魂を揺さぶるドラマ『海のはじまり』 一音で世界を変える唯一無二で圧倒的な俳優

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Shutterstock/アフロ)

静かなドラマ『海のはじまり』

『海のはじまり』は静かなドラマである。

そんなに大きなことは起こらない。

9月16日に放送された11話では、6歳の海(泉谷星奈)が、夏(目黒蓮)と一緒に暮らし始めた。

弥生さん(有村架純)に美容院につれていってもらった。

行き慣れた図書館に一人で出かける。黙っていたのでみんなに探されたがすぐに見つかった。

「なんで、夏くんは、ママがいないって言うの」、と聞いたら夏くんは困っていた。

11話に起こったことはそれぐらいである。

忙しく生きる人向けではないドラマ

静かなドラマだ。

出来事で人を引き込む物語ではない。

だから、現代を忙(せわ)しく生きる人向けではない。

刺激がないと物語に引き込まれない人にも不向きである。

言葉を大事にするドラマ

ドラマのなかで、言葉が大事にされている。

言葉にされてないことも映像で丁寧に見せていく。画面をしっかり見ていないといろんなことを見落としてしまう。

この静かなトーンと合えば、心地良く見ていられる。

合わないとたぶん、見ていられない。

そうやって静かに、のちのちまで残る傑作ドラマが形づくられているところだ。

「死んだ人」の物語

ドラマが静かなのは「死んだ人」周辺の物語だからだ。

死んだ人は動かない。静かである。

古川琴音の演じる水季はドラマ第1話冒頭で娘と海辺を歩く姿が描かれ、すぐに彼女の葬式のシーンになる。

彼女が死んだところから物語が始まった。

「彼女が亡くなったこと」を基軸にお話はすすんでいく。

諸葛亮孔明は死んだのちも、敵の司馬懿(仲達)の軍を翻弄した、という逸話をおもいだす。古川琴音の演じる水季は、たしかにちょっと、何をしでかすかわからない、という気配がある。

誰もが泣けるドラマではない

私はこのドラマを見て、ほぼ毎回、ぼろぼろ泣いている。

でも、そんなにみんな、泣いているわけではないらしい。誰もが泣けるドラマではない。

見る人によって、響いてくる場所がまったく違ってくる。

「ママ、ここにいた?」

11話では、6歳の海ちゃんと、一緒に暮らすことになった28歳の父(目黒蓮)が、すこし行き違ってしまう。

海ちゃんは父(夏くん)の部屋で、父(夏くん)に聞く。

「ママ、ここにいた?」

わかりにくい質問である。

夏くんは「来たことがあるよ」と答える。

そう答えられて、子供は驚いている。

同じことを聞かれた祖母

その少し前、祖母(大竹しのぶ)にも海ちゃんは同じことを聞いている。

「ママ、ここにいた?」と聞かれ、祖母は「いたよ」と即答する。「でも、子供だったな」と続ける。

たぶん、これが「いっしょに暮らす者」の答えとして正しいらしい。

いっしょにいた場所に行きたがる

その少しあと、夏くんの母(西田尚美)と父(林泰文)が子供の言動について、ほっとしたような会話をしている。

子供というものは、いまいないとわかっていても、かつて大事な人といっしょにいた場所に行きたがるものだ、と父がいう。

母はやさしいやさしい声で「なんだろね、あれ……いた、って、実感したいのかな……」という。

いたという同意が欲しい

「ママ、いたよね?」と聞く海ちゃんは、いたよ、という同意が欲しいらしい。

でも夏くん(目黒蓮)は、「いたよね」と聞かれると「もういない、だから僕と二人で頑張ろう」と言ってしまう。

夏くんはわかっていないと、海ちゃんからその不満を聞かされた津野さん(池松壮亮)は彼に向かって、つい言ってしまう。

「………海ちゃんは、いる、いないの話、してないですよ……わかります?……いるとかいないって話してるの月岡さんだけです………いた、とか、いなくなった、って話をしてるんです……」

「……」

「………わかんないですよね、彼女がいたときもいなくなったときもおまえいなかったもんな………すいません、おまえとか言って………」

冥府の巨大なカーテンを切り裂こうとしているナイフのよう

この、すいませんおまえとか言ってと、と謝った津野さん(池松壮亮)の姿に強く胸を突かれた。

私はそのままぼろぼろ泣いてしまった。

ぼろぼろ泣く意味はわかってもらえないかもしれない。

意味は自分でもわからないのだが、ただただ胸に迫ってきた。

「いまいる、いまいない」ではなく、「かつていた、いなくなった」が大事なんだ、どうしてそれがわからないのだ、という小さく鋭い叫びは、冥府の巨大なカーテンを切り裂こうとしているナイフのようで、短く小さいだけに、深く深く胸に刺さってきた。

漂う魂が見えないのか、と叫んでいたようにも聞こえたが、それは考えすぎかもしれない。

池松壮亮という凄まじい役者

この津野さんも、水季がいなくなったことが、哀しいのである。

穏やかに話しているが、その喪失感がおもわず洩れてしまって「おまえ」という言葉になって、その気配に涙が止まらなかったのだ。

たぶん言葉より身体性だ。

津野さんが、一瞬だけ激しい言葉を出すのが自然で、すぐ平常を取り戻すが、垣間見えた喪失感が身体から溢れ出て、そこに貫かれた。

池松壮亮だからだろう。

ひとつのセリフの、「おまえ」という短い音にすべてが込められていたから、深く深く入ってくる。

あまりにも圧倒的な存在感だ。

凄まじい役者だとおもう。

終わったあとも続く生活が描かれる

西田尚美の「なんだろね、あれ……いた、って、実感したいのかな……」と、池松壮亮の「おまえいなかったもんな」の二つのセリフを抱えて、また一週間、待つことになる。

次週が最終話、9月23日でこの世界も閉じられるらしい。

いくつもの可能性があって、どうなるのかいまはわからない。

ドラマのあとも続く生活が描かれるのだろう、という予想だけはつく。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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