6月11日に放送された『NHKスペシャル』では「#不寛容社会」と題された特集が組まれていた。
昨今顕著になったいわゆる「不謹慎狩り」やスキャンダルを起こしたタレントや政治家に対する執拗なバッシング、理不尽ともいえるようなクレームから表現が自粛されてしまうことなどを取り上げ、それを「不寛容社会」と形容し、なぜそうなったのか、これからどうすべきなのかを討論するという趣旨だった。
討論には一般視聴者の他、宇野常寛、榎本博明、鴻上尚史、壇蜜、津田大介、デーブ・スペクター、中野信子、森達也らが参加していた。
自分の良心を汚したくない
まさに苛烈なバッシングを浴びた佐村河内守をテーマにした映画『FAKE』が公開になった映画監督・森達也は現在の日本の社会をこのように分析している。
そしてそれが強くなっていったきっかけを95年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件だと解説する。ちょうどWindows95が発売されインターネットが普及し始めた年だ。
クレームもバッシングも不謹慎だということも、その大半は「正義感」から行っているものだ。そこに「悪意」はほとんどない。
だからたちが悪い。
正しいことをしているから歯止めが効かなくなるのだ。
討論に参加していた一般視聴者のひとりは、そうしたクレームを自分も書き込んだことがあるという。そのときの心理をこう語っている。
「自分の良心を汚したくない。放ったらかしたら自分の良心が汚れると思って書く」
それに対し、脳科学者の中野信子は「それです!」と持論を展開する。
自分たちの「正しい」主張が通って、何かが変わると「自分が社会を動かした」と承認欲求が満たされる。それが快感になってまた別の何かを変えたくなってしまう。逆にそこでもし何も変わらなかったら、承認欲求は満たされないまま大きくなってしまうのでさらに過剰な行動に走ってしまう。
自分の「正義」を表明することは決して悪いことではないだろう。
だが、それを相手に強制しようとしたときに、その性質が一気に変容してしまう。
正義って優しくない
こうした問題がクローズアップされているからか、最近のテレビ番組でこうした問題がよく話題にされるようになった。
例えば、バラエティ番組でもそうだ。小説家をゲストに招く、オードリー若林正恭司会のトーク番組『ご本、出しときますね?』(BSジャパン)ではこんな話があった。
この日(6月18日放送)のゲストは、西加奈子と角田光代。
その話を受けて「ちょっと話はズレるかも」と前置きした上で若林が語りだした。
こうした意見には多くの人が共感するだろう。しかし、現実には何度となく同じことが起こっている。それは総論では自分の中に悪い部分があるから相手を糾弾するようなことはできないと分かっていながらも、ひとたび、自分がもともといけ好かないと思っていたことに明確な悪事があるとわかったときや、逆に大好きだった相手に裏切られたような感じになったときには、自分の中の正義感が、嫉妬や鬱憤と掛け合わさって増長してしまうからだろう。
では、なぜ「正義」を疑うことができなくなってしまうのだろうか。
それはそもそもそれに使う「言葉」がそういう性質を持っているからだと高橋源一郎は98年に発表された文章で書いている。
分かり合えないことを分かり合う
それではどうすれば「不寛容」にならずに「正義」の暴走を抑えることができるのだろうか。
「#不寛容社会」で森達也と劇作家・鴻上尚史はこのように話している。
鴻上と同様のことを、同じく劇作家の平田オリザも別の番組の江川紹子との対談の中で語っている。
心の思春期は、生きてる限り続く
ザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトは、2010年に行われたインタビューで「人間、生きていればみんなイライラする」と語っている。しかも、そのイライラには本質的には実は理由がないと。
先日まで放送されていた「ゆとり世代」をテーマに描いた宮藤官九郎・脚本ドラマ『ゆとりですがなにか』(日本テレビ)の最終回(6月19日放送)。「ゆとり世代」の小学校教師・山路(松坂桃李)が性教育を行う場面がある。そこで彼は子供たちに向かってこう語りかけた。