江戸時代のヘリコプターマネー、荻原重秀のデフレ対策
8月14日付けの日経新聞朝刊の特集記事「敗戦後、失われた預金(日本国債) 」のなかにヘリコプターマネーに類する政策を行ったとして江戸時代の荻原重秀の名前が出ていた。荻原重秀がどのような政策を行ったのかについて振り返ってみたい。
1639年に幕府はポルトガル船の入港を禁止し、いわゆる鎖国に入ったのだが、これにより日本の貿易高は減るどころかむしろ増加した。ライバルのポルトガルが日本市場から撤退し、これによりオランダは世界最初の株式会社である東インド会社を経由した日本との貿易で大きな収益をあげ、17世紀に欧州での繁栄を築き上げた。
ポルトガルは日本の銀を介在してのアジアでの三角貿易を行っていたが、オランダも同様に中国で購入した生糸などを日本に持ち込み、それを銀と交換していた。これにより大量の生糸が日本に流入するとともに、大量の銀が海外に流出した。またオランダはインドとの貿易に金を使っていたことで、オランダ経由で大量の金も流出していった。
幕府は金銀の流出を防ぐために、金や銀の輸出禁止などの政策を打ち出したものの、国内に生糸や砂糖などの輸入品への需要が強く、国産品では対応できず、結局、その対価として金銀を用いらざるをえず、金銀は流出し続けた。
日本の金銀の流出先としては、貨幣の材料として銀を必要としていた中国だけでなく、インドなどにも流れ、また金貨についてはインドネシアのバタフィア(現在のジャカルタ)で日本の小判がそのまま流通していた。さらにオランダ本国でもホーランド州の刻印の打たれた日本の金貨が使われていた。
金銀の流出制限のため幕府は1685年に貞享例を施行し、貿易額そのものを規制した。また、元禄の改鋳などにより金銀の質を低下させたことから、貿易の支払いに対しては、金銀に変わり、次第に俵物と呼ばれる加工食品とともに銅が使われるようになったのである。
金銀の海外流出とともに日本国内の金銀の産出量が低下した。米の生産高の向上や流通機構の整備などにより、国内経済が発展し貨幣需要が強まったものの、通貨供給量が増えなかったこともあり、米価は上昇せずデフレ圧力が強まった。
五代将軍綱吉は豪奢な生活を送っていたことに加え、寺社や湯島聖堂などを建立するとともに、明暦の大火や各地で発生した風水害などにより、慢性的な赤字を続けていた財政がさらに厳しくなり、幕府は1695年に貨幣の改鋳に踏み切った。
将軍綱吉は勘定吟味役の荻原重秀に幕府の財政の立直しを命じ、荻原重秀はそれまで流通していた慶長小判(金の含有率84-87%)から、大きさこそ変わらないものの金の含有率を約57%に引き下げた元禄小判を発行した。また銀貨の品位も80%から64%に引き下げられた。
しかし、金銀貨の品位引き下げが均衡を欠いていたことから、銀貨の対金貨相場が高騰し、一般物価も上昇した。このため1706年以降、銀貨が4回に渡り改鋳され、1711年の改鋳により銀貨の品位は20%と元禄銀貨の3分の1にまで引き下げられた。金貨については1710年以降、品位を84%に引き上げたものの量目を約2分の1にとどめ、純金含有量が元禄小判をさらに下回る宝永小判を発行した。
これらの改鋳により幕府の財政は潤ったものの、これにより通貨の混乱とともに物価の急騰を招き、庶民の生活にも影響が出たのである。荻原重秀に関してはインフレを引き起こしたといった批判とともに、デフレ経済の脱却を成功させ元禄時代の好景気を迎えたとの見方もあり、評価は分かれている。また、荻原重秀は著作を残していないが、「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれに代えるといえども、まさに行うべし」と述べたとも伝えられている。藩札などの紙幣も発行されていたことで、貨幣の発行には信用の裏づけがあればたとえ瓦でも石でも良いとする、現在の管理通貨制度の本質を当時すでに見抜いていた人物でもあったとされる。