英国と貧困、その救済の歴史と今 公文書館の資料から
(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の記事を補足・転載しています。)
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英国ではインフレ率が二ケタ台の日々が続いている。光熱費、生活費が急騰し、特に痛いのが小売店の食品価格が16ー20%上昇したことだ。
格差社会・英国では、収入・家庭環境・教育程度・職業の種類などで上流、中流、労働者階級の区分けが残り、労働者階級よりもさらに下の貧困層になると生活環境がかなりつらい状況となる。
社会全体の支援体制が整う前の19世紀、貧困救済の施策は不十分で、自力で生活を支えられない人は救貧院に送られた。その生活の実態を英国国立公文書館にある資料でたどってみた。
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数年前、筆者は歴史的文書の調査をするため、ロンドン南西部にある英国国立公文書館(英公文書館、The National Archives)に通うようになった。英公文書館はその前身の「パブリック・レコード・オフィス」の時代を含めると、約180年の歴史を持つ。英国の人口は日本の約半分だが、国立公文書館の職員数は英国は日本の約10倍、所蔵量では約3倍になる。
文書の背後にある物語をまとめて、『英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱』(中公新書ラクレ)として上梓した。公文書は社会の変容を伝える貴重な資料だ。ここでは、未収録のいくつかのエピソードを3回にわたって紹介したい。
オリバー・ツイストがいた場所は
「お願いです。どうかもう少し食べ物を下さい」
10歳にも満たないと思われる孤児オリバーが、空っぽになった皿を差し出す。
いかにも頼りなげなオリバーが、恐る恐るお代わりを要求する場面を映画『オリバー!』(1968年)で目にした方は多いのではないだろうか。原作はチャールズ・ディケンズが書いた小説『オリバー・ツイスト』(1838年)である。
オリバーが暮らしていたのが、貧困者が衣食住を提供される代わりに働くことを義務化される救貧院(「ワークハウス」)だ。
貧困者のための包括的な法律が英国で成立したのはエリザベス朝の時代である。それまでの貧困救済策をまとめて法制化した貧困法(1602年)の下、救貧はキリスト教の各教区の役割であることが明記された。一定の不動産を持つ住民が少しずつ税金(「貧困税」)を納め、これで福祉を賄った。
18世紀末には「スピーンハムランド体制」が広がってゆく。これはイングランド東部バークシャー州スピーンハムランドで始まったことから、そう呼ばれるようになった救済制度で、パンの価格によって支援提供額を決定する仕組みだ。当時、穀物の価格が上がり、生活困窮に苦しむ低所得層を支援するために始まった。一家を支えるのに十分な量のパンを買えないほどパンの値段が上がった場合、貧困税の中から収入の不足分を支援した。
雇用主にとっては、労働者に低賃金を与えても不足分は貧困税がカバーしてくれる、都合が良い体制だ。一方、こうした所得支援は貧困層の勤労意欲をそぐという意見もあり、貧困税を払う中高所得層にとっては不満の種だった。
19世紀初期までに産業革命が進み、北部の工業都市を中心に人口が急激に増加したことで、それぞれの教区が面倒を見る体制は維持が難しくなってきた。
ナポレオン戦争(1803-15年、ナポレオンが指揮するフランスとその打倒を目的とした対仏大同盟――英露オーストリア、プロイセンなどの列強――との戦い)後の不況によって、農業従事者や小規模なビジネス経営者の生活も大きな打撃を受けた。
新貧困法、成立へ
こうした動きの中、1832年、王立委員会が設置され、貧困法の改革に乗り出した。
これを受けて、1834年、新貧困法が成立する。新法の下、五体満足な貧困層に対する貧困税を使った支援は停止されることになった。自力で生活を維持できない貧困者は救貧院で働くことを奨励された。各教区は「貧困法組合」として再編された。ロンドンのサマーセットハウスには「貧困法部」が設置され、各地域の貧困対策を監督した。
救貧院の実態とは
救貧院は、仕事がなく貧困状態にある人が労働の代わりに食事と寝床を得ることができる場所だ。どんな手順を踏んで作業者になるのだろうか。
まず、到着した最初の日、洋服をすべて脱ぐように言われ、救貧院管理者の監視の下でお風呂に入る。制服が与えられるため、外出の際にはすぐに救貧院にいる人だということが分かるようになっていた。もし家族と一緒だった場合、大人の男性・女性・子供に分けられ、それぞれ別々の場所で生活した。
仕事の内容は主として単純作業で、石を割る、電信線から麻を取り除く、骨を砕いて肥料を作る、大きな金属の爪(「スパイク」)を使って縄をほどいたりするなど。朝は6時から夜8時ごろまで、奴隷のように働かされていたとも言われている。
長時間勤務、制服の着用、家族の絆の断ち切りと言えば、監視付きの刑務所にいるようなものだ。個人としての尊厳をギリギリまで奪われた生活だったと言えよう。
公文書館には、新貧困法成立前後に作られたとみられる、救貧院の一場面を示すポスターが保管されている。
ポスターで一番目立つのが、上に書かれている文字だ。「新救貧法下、新たな救貧院はこうなっている。下の絵を見てほしい」
救貧院の広々とした部屋の中にいる人々の様子が見える。題字のすぐ下左側には「民生委員たちの命令による、救いがたい人々への処罰の様子」とあり、上部には、両手を後ろに縛られた3人が天井からつるされている。
上から順に、記載された文章を拾ってみる。
「新救貧法の委員会の命令によって、全ての貧民の勤務時間は午前4時から午後10時になった。救貧院の庭を片付け、掃除する時間として3時間、与えられる」
「ああ、ご主人様、御慈悲を。高齢で、病弱の私はそれほど一生懸命は働けません。どうか10分間休ませてください」
「休みだって、まったく! この怠け者の年寄りの盗人め。紳士になるためにここに来たと思っているのか。年寄りも若いのもここでは働くんだよ。働く以外に貧乏人に何ができる。さあ、この悪党よ、麻のところに行って働け」
「告知:反抗的な振る舞いや騒ぎを起こした、五体満足の貧民全員は裁判もなく頭を殴られ、その身を医者に売られた。政府の命令によって、だ」
「ご主人様、どうか憐れみをかけてくださるよう祈ります。中に入れてください、それでなければ何か救済策を与えてください。本当に飢餓寸前なんです」
「それなら出て行って、生活のために盗みをしたらどうだ。ここには入れないぞ。どこかへ行ってしまえ、このばいきんめ」
右端にいる、荷車の横にいる帽子をかぶった男性はこう言う。「お前、運搬車に何を入れてるんだ」。男は答える。「死んだばかりの幼児だよ。病院に連れて行って、医者に売るんだ。こんな荷物が週に1回はあるね」
左下では、きねを上げる男女がいる。「ここで麻を打つのは石を割るよりいやだ。ああ、神様、どうか御慈悲を」。「頭髪は剃られるし、シャツを着ることは許されない。西インド諸島からやってくる奴隷の話を聞くが、こっちよりはるかにいい」
桶を運ぶ男性がいる。桶には「貧民のための豆のスープ」とある。
下方にいる子供たちは涙をこぼしながら、作業を行っている。その上には、今にも貧民に一撃を与えそうな、山高帽を被った男性が立っている。
救貧院で人々は長時間労働を強いられたが、このポスターが描くように天井からつるされていたわけではない。このため、新救貧法に抗議する決起集会のために使われたのではないかと言われている。
救貧院から生活保護施設へ
救貧院制度が廃止されたのは1930年。大部分が生活保護施設という名前に変わり地方自治体の管轄に置かれたが、1948年の国民扶助法を経てようやく消えていった。その大部分は老人ホームになり、一部はホームレスの収容施設や貧困母子家庭の住居として1990年代初頭まで生き残った。
英国の貧困の現状はどうか?
歴代の英政府は貧困の撲滅を政策の1つとしてきたが、ここで言う「貧困」とは衣類、食物に事欠き、住む場所もない場合の「絶対貧困」ではなく「相対的貧困」で、後者は英国の世帯収入の中央値の60%以下の生活状態を指す。
19世紀とは異なり、貧困層には政府から福利厚生の支援が提供されるが、職を失う、離婚する、事件・事故、景気の動向によって人々は相対的貧困に陥る。
2021-22年度では、6人に1人がこの貧困層(相対的貧困)に入る(下院報告書「英国の貧困:統計」、4月6日発表)。
近年の物価高騰によって、仕事を持っていてもフードバンクを利用する人が増えている。フードバンクは慈善組織などが運営し、無料で食料品や生活必需品を入手できる場所だ。
慈善組織大手「トラッセルトラスト」の調べによると、今年3月までの1年間で、トラッセルトラストが運営するフードバンクで約300万個の食料品パックが配布されたという。前年比37%増である。2017-18年度では約135万個だった。
生活費高騰への対策
英国の新聞やニュースサイトはいかに物価高を切り抜けるかをテーマにした記事を掲載するようになった。
ー光熱費高騰への対策は、「お風呂よりもシャワーを選択」「セントラルヒーティングの温度を下げる」「家の防寒対策(断熱材の使用など)」「電気ガス会社をよりお得なサービスを提供する会社に変える」。
ー食品価格高騰対策は、「まとめ買い」「1ランク下げたものを買い、問題がなければこれを買い続ける」「食品ロスを失くする」「冷凍庫を活用」「4人用1ポンド(約160円)でできるメニューの紹介」など。
多くの家庭にとって、歯を食いしばるような毎日が続いている。