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FW平井将生が現役引退。「後悔だらけ」と振り返った16年とこれから。

高村美砂フリーランス・スポーツライター
岡崎市のシンボル、徳川家康が生まれた岡崎城をバックに。写真提供/ FRUOR

■クラブや岡崎市への愛着も『引退』を後押し

 FCマルヤス岡崎(JFL)に所属するFW平井将生が現役引退を発表した。06年にガンバ大阪で始まったプロサッカー選手としてのキャリアは実に16年。Jリーグの全カテゴリーでプレーをしたのち、18年8月からは自身初のJFLでJリーグ昇格を目指した戦いを続けてきたが、今シーズン限りでそのキャリアに終止符を打つと決めた。

「今年の夏くらいから少しずつ現役引退の文字が頭に浮かぶようになっていました。その中で夏を過ぎて試合に出ることはおろか、メンバー入りすることすら減っていったことでより現実的に引退を考えるようになりました。マルヤスでの3年半、練習を休んだのは2回だけで、体やコンディションは自分としては全く問題なかったし、他のクラブへの移籍も考えましたが、現実的にJFLでプレーしている僕が移籍先を探すとなれば、同じカテゴリーのチームか、それより下のカテゴリーのチームになる可能性が高いですからね。今より金銭的なダウンが否めないということも想像し、かつ、5歳と3歳になる子供たちの生活環境やセカンドキャリアをどう過ごすのかを考えた時に、マルヤスで引退しようと思いました。幼少の頃からお世話になった全てのクラブ、チームメイト、スタッフのみなさん、そして支えてくれた家族に感謝しています」

 マルヤスに在籍してから3年半の時間の中で、クラブや岡崎市という街に愛着を抱くようになったのも理由だ。

「僕が初めてマルヤスに来た時はまだ土のグラウンドで練習していましたが、そこから半年が過ぎて人工芝のグラウンドが完成するなど、親会社であるマルヤス工業株式会社には『サッカー』に対する大きな理解を示していただきながら、サッカーだけに集中出来る環境を整えてもらう中でプレーをしてきました。実際、マルヤスはJFLのチームでありながら今シーズンもプロ契約選手が20名近くいます。また1968年にマルヤス工業サッカー部として創部して以来、地域リーグから一歩一歩ステージを上げてきたこともあってか、このクラブに関わる誰もが愛情深く支え、応援してくれていることにもすごく温かさを感じています。点を決めた時には、山田泰一郎社長が祝福メールをくださったのもすごく嬉しかったです。そうした中で、自分自身のクラブとか地域への愛着が深まっていたことも、ここで引退しようという決断につながりました」

 とはいえ、16年のプロサッカーキャリアについては「後悔しかない」と苦笑いを浮かべる。平井曰く「もともと深く考えるタイプではない」ため、その都度、直感を頼りにサッカーをしてきたそうだが、だからこそ取りこぼしたことも多かったはずだと振り返った。

「06年にガンバでプロになって、最初の2年間はまったく試合に出られず…でも3年目に少しだけ試合に出たことで、首の皮一枚がつながった感じで契約延長をしてもらい、周りの選手に恵まれながら点も取れるようになって結果的に気がつけば16年も現役生活を続けられました。もちろん、その過程では、求められることに応じて自分なりに考えてプレーを変えてきたつもりだし、それが次なるチームへの移籍につながったところもあったと思いますが今、改めて現役生活を振り返ると、もっとこうしておけばよかった、もっとやれることがあったんちゃうか、って後悔ばっかり(苦笑)。やり直せるなら中学生くらいからやり直したいです。でも、それは無理なので自分が今、感じている様々なことは今後のキャリアで活かしていきたいと思っています」

■自身最長の在籍年数を数えたガンバ大阪での濃密な時間

ガンバ時代は2007年から『14』を背負い、08年にJ1リーグデビューを飾った。 写真提供/ガンバ大阪
ガンバ時代は2007年から『14』を背負い、08年にJ1リーグデビューを飾った。 写真提供/ガンバ大阪

 在籍した期間の長短こそあれ、どのクラブにも愛着を持ちながらその時間を過ごしてきた。

「移籍のたびに環境が変わる難しさ、楽しさを実感して、それがまた自分の成長に繋がってきた」

 中でも特に濃密な記憶として刻まれているのがユース時代から所属したガンバ大阪での11年間だ(注:07年はアルビレックス新潟に期限付き移籍)。クラブ史上最多となる6選手がユースチームからトップチームに昇格した06年。『G6』の愛称でファンからも親しまれた6選手の中で、同期の安田理大(ジェフ千葉)に次いで2番目にトップチームデビューを飾ったのが平井だった。

 07年、浦和レッズを4-0と圧倒した『2007ゼロックススーパーカップ』だ。

「開幕前のキャンプからすごく調子が良くて、練習試合のたびに点を取っていたら西野朗監督がメンバーに選んでくれて、途中から使ってくれた。当時のガンバは、毎年のようにスペシャルな外国籍FWが在籍していた時代で、このシーズンもマグノ・アウベスやバレーがいて…。その中で試合に出られたのは自信になったけど、結果的にリーグ戦では一度も起用されず『このままだとプロキャリアがすぐに終わってしまう』と思っていたら、08年で少し試合に出してもらえるようになり、契約延長をしてもらいました」

 もう1つ、平井に強烈なインパクトを残したのが、07年7月にアウェイで戦ったヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)準々決勝第1戦・浦和レッズ戦だ。試合前にケガ人が続出したため出場メンバーを大幅に変更して臨むことになったガンバだったが、平井はメンバーから外れ、代わってゴールキーパーが3人、メンバー入りを果たした。

「自分は元気だったし、てっきりメンバーに入れると思っていたら、控えGKとして松代(直樹)さんと敦志(木村)さんが名を連ねて…多分、控えメンバーにGKが二人も入ったのはJリーグ史上初めてじゃないですか?! あれは多分、西野さんなりのフィールドプレーヤーへの檄で…実際に、その後の紅白戦ですれ違いざまに西野さんにケツを叩かれて『もっと頑張れ』という無言の叱咤だと受け止めたし、ポジションは待っていて巡ってくるものではなく、自分で奪いにいくものだと学びました」

 そんな平井がもっとも輝いたのは10年だ。この年はペドロ・ジュニオール、ルーカス、チョ・ジェジン、ゼ・カルロス、ドドの5人の外国籍FWが在籍。途中からイ・グノも加わるなど、言うまでもなくポジション争いは熾烈を極めたが、3月23日のAFCチャンピオンズリーグ第3節のアームド・フォーシズ(シンガポール)戦で、日本人としてはACL史上初のハットトリックを達成すると、J1リーグでの初先発となった4節・ベガルタ仙台戦でも『ゴール』を決めて起用に応える。さらにその後も2試合続けて2ゴールずつを刻み一躍、その名を知らしめた。

 『浪速のアンリ』という愛称がつけられたのもこの頃。背番号がアーセナルFCやFCバルセロナでFWティエリ・アンリがつけていた14であることや、彼自身もブレイクの理由に「アンリのDVDを見まくった」ことを挙げていたのが理由だった。

「もともと僕はユース時代、サイドハーフをしていてトップチームでも紅白戦になるとサイドハーフをすることが多かったんですけど、足の速さには自信があったのになかなか裏には抜け出せなくて。でも、シーズン前のグアムキャンプ中にアンリのDVDを見まくっていたら、左サイドからのカットインとか、ドリブル突破とか、裏への飛び出しのタイミングが掴めるようになり、得点に絡めるようになった。と言っても10年は前半で交代になることもあったりして、出場したJ1リーグ30試合のうち21試合で先発させてもらったのに出場時間は1645分ですからね。J1リーグでのキャリアハイとなる14得点挙げられたのは自信になったけど、納得することはなく…。FWの層の厚さを考えても危機感しかなかったし、何より西野さんのアメとムチのおかげで気を抜く暇もなかった(笑)」

 その西野には今も「プロとして戦えたのは西野さんのおかげ」だと感謝を寄せる。04年、ガンバユース加入に際して平井は『大阪府以外から獲得した第1号選手』として注目を集めたが、実は彼がユース時代、レギュラーの座を掴んだのは3年生になってから。しかも、その矢先の6月には前十字靭帯断裂の大ケガを負ってしまう。ようやく掴んだチャンスを手放さなければいけなくなっただけではなく、目標だったトップチーム昇格が遠のくことを覚悟して突入した入院生活だったが、そんな彼を西野は独特の言い回しで励ました。

「05年6月に前十字靭帯を断裂して、忘れもしない七夕に手術をしたんですけど、時を同じくしてトップチームの前ちゃん(前田雅文)が同じケガで同じ病院に入院していたんです。前ちゃんは個室で僕は大部屋でしたけど(笑)。そしたらある日、西野さんが前ちゃんのお見舞いに来たついでに僕の病室にも寄ってくれたんです。当時の僕は大阪で寮暮らしだったし、向陽台高校は通信制で週2回の登校でよかったから、僕にはめちゃめちゃ時間があり…よくトップチームの人数合わせで駆り出されていたからだと思います。そしたら西野さんが『来年の昇格メンバーに将生のことも推薦しておいたから、諦めずにリハビリを頑張れ』と言ってくれて。結果、退院してまだリハビリ中だったのに昇格を伝えられた。そう考えても、西野さんが求めてくれなければきっとトップ昇格も、プロキャリアもスタートできなかったと思います」

 以来、西野が監督を退任する11年までの6年間にわたりトップチームでプレーした平井は、12年に期限付き移籍でアルビレックス新潟へ。その翌年、再びガンバに戻ったものの契約満了となり、ガンバに別れを告げた。

「西野さんのアメとムチに鍛えられながらガンバでプレーできたことや、毎年のように送り込まれてくるスーパーなFW選手に刺激を受けたこと。何よりガンバという素晴らしいチームでプレーできたことが今のキャリアにもつながった。正直、ガンバに在籍している時はその事実になかなか気づけなかったけど、その後、いろんなクラブを渡り歩いて、いろんな環境でプレーして、改めてガンバの凄さを思い知りました」

■サッカーの楽しさを伝えるために。セカンドキャリアに描く夢

 「サポーターのものすごい熱気に驚いた」と振り返る新潟時代を含め、ガンバ以外のクラブでもたくさんのことを学び、プレーの幅を広げてきた。例えば、14年から在籍したアビスパ福岡では、マリヤン・プシュニク監督のもと4-1-4-1システムの1トップではなく、インサイドハーフやウイングに据えられ、チャンスメーカーとしてプレーしたのもその1つだろう。

「ガンバ時代は全くやったことのなかった、ライン間でボールを受けるとか、相手DFの間でボールを受ける役割を覚えたのはプシュニク監督のおかげ。ゴールは3つしか獲れなかったけど、アシストは増えたし、新たなポジションを開拓できたことは、その後のギラヴァンツ北九州やマルヤスでプレーする上でも力になった」

 また、福岡を契約満了になったあと、真っ先にオファーをくれた北九州についても「なかなか勝てなかったし、チームの力になれなかった」としながらも「素晴らしく美しい芝生のグラウンドで練習ができたことや、新スタジアムでプレーできたのもいい思い出」だと振り返る。そして冒頭に書いたマルヤスでの3年半ーー。

 そんな風に様々な財産を自分に積み上げながらも「後悔しかない」と振り返ったのは、越境でのガンバユース加入を決意した際、中学時代の3年間を過ごしたプルミエール徳島SCのチームメイトから贈られたボールにしたためられた『メッセージ』が今も頭にあるからかもしれない。

「徳島を出るときに、チームメイトがボールにいろんな思いを寄せ書きしてくれて。その一番真ん中に、オカンが『日本一のFWになれ』ってメッセージを書いてくれていた。結果的にそれは叶えられなかったけど、今でもそのボールは目が届きやすい場所に飾ってあるし、これからはセカンドキャリアで『日本一のFW』を育てることを目標に頑張っていこうと思っています」

JFLの舞台で戦った3年半は、セカンドキャリアにもつながる時間になった。 写真提供/FCmaruyasu
JFLの舞台で戦った3年半は、セカンドキャリアにもつながる時間になった。 写真提供/FCmaruyasu

 その言葉にあるように、引退後のキャリアとして平井は今、マルヤス時代のチームメイトで、元ジュビロ磐田やサガン鳥栖などでプレーした船谷圭祐とともに、2月から岡崎市で『FRUOR(フルオール)サッカースクール』を開校する準備を進めている。岡崎市を中心に三河地方から選手を募り、選手育成を目指す予定だ。

「岡崎市は人口38万強と愛知県の中でも大きな市なんですが、どちらかというとサッカーより野球の方が人気なんです。これは、サッカーを学ぶ、知る環境があまり整っていないことも理由の1つだと思います。だからこそ、いつか三河からJリーガーを誕生できるように、自分たちの経験やサッカーの楽しさを伝えながらまずはサッカーを楽しい! と思ってもらえるきっかけづくりをしたい。またスクール以外にも、体を動かすことの楽しさを知ってもらうために、幼稚園のアフタースクールも始める予定だし、お世話になった岡崎市での地域貢献活動として行政とも協力関係を築きながら、街の美化を目的にしたゴミ拾い活動や、小学校訪問などもしていこうと思っています。これはガンバ時代にホームタウン活動の一環として経験した小学校での『ふれあい活動』がきっかけです。僕自身は徳島の田舎で育ったので幼少期にJリーガーと触れ合う機会はなかったけど、『ふれあい活動』のように、もし自分が子供の時にプロの人たちを身近で感じられる機会があったら…あの時に見た子供たちのキラキラした表情を思い出しても、きっと描く夢や目標も変わっただろうし、頑張ろうと思うことも増えたんじゃないかな、と。だからこそ、そういういろんなきっかけづくりを岡崎市でやっていけたらいいなと思っています」

 「後悔だらけ」の現役生活だったからこそ、その『後悔』を力に変えて。彼にとっての特別な番号である12月『14』日に現役生活に終わりを告げた平井将生は、新たなキャリアに足を踏み出した。

<FRUORサッカースクール 選手募集中!>

詳しくはオフィシャルホームページをご参照ください。

https://fruor2022.jimdofree.com

フリーランス・スポーツライター

雑誌社勤務を経て、98年よりフリーライターに。現在は、関西サッカー界を中心に活動する。ガンバ大阪やヴィッセル神戸の取材がメイン。著書『ガンバ大阪30年のものがたり』。

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