戦後初の国債発行と日銀の国債買入の開始
過去の金融の歴史を紐解く資料でネットに公開されているものは、ありそうであまりない。その貴重な資料のひとつに日銀の百年史がある。ここには戦後初の国債発行の方式を巡ってのやりとりが記載されていた。
前回の東京オリンピックが開催されたのが昭和39年であったが、翌年の昭和40年に不況が起きる(40年不況)。オリンピック景気の反動といったものであったが、この対策として財政面からの公共事業が促進されることになり、戦後初めてとなる国債発行が準備されたのである。戦後しばらくは国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入で賄われていたが、その状態は長くは続かなかった。そこで問題はその国債をどのように発行するかとなる。
百年史によると、日銀は市中消化が望ましく、日銀の直接引き受けには反対であるとしていた。しかし、大蔵省や市中銀行などはそうではなかったようである。もちろんすでに日銀の国債引き受けを禁じている財政法は施行されていた。それでは何故、日銀は国債引き受けに反対したのか。それについては百年史には下記のようにある。
「昭和7年以降本行引き受けによって国債が発行されるようになったことが、金融政策の適切な運営を困難ならしめて通貨価値の安定を妨げ、やがては激しいインフレーションをもたらし、本行からセントラル・バンキングの機能を奪うに至ったことは既述のとおりであり、この点は本行の100年にわたる長い歴史のなかでも、とくに痛恨極まりない、苦渋に満ちた経験であった」(日銀、百年史より引用)
ところが戦後初の国債発行について、当時の大蔵省は当面市中消化は無理であり、また全額を資金運用部で引き受ける余裕もないから、結局一部資金運用部引き受け、残額を日本銀行引け受けという方式をとらざるをえないとの考え方が強かった。金融債などを主体に売買する債券市場は存在していたものの、円滑に国債を消化できるシステムは当時、構築されていなかった。このため市中銀行も市中公募による国債発行には消極的であった。新聞の社説などでも、昭和40年度の国債は日銀引き受けで発行すべきとの意見もあったようである。
このため日銀は大蔵省だけでなく関係各方面に市中消化原則の考え方について理解を求める努力をした。当時の佐々木副総裁は日銀の国債引き受けの場合には、売りオペがセットになるが(高橋財政時の方式を意識か)、当時のオーバー・ローンのもとでは日銀の意図するだけの規模で実行しうるか保証はない。これに対して市中消化の場合には、日銀の国債買入が問題となり、これについては日銀が物価・国際収支の動向等を考慮して、適当と認められる額の買入れを主導的に実行できる、としたのである。すでにこの時点で日銀の国債買入は国債発行とセットで意識されていたことが伺える。
こうして1966年1月に、戦後初めての国債が、期間7年、利率6.75%で2千億円発行されたが、その前に金融機関による国債引き受けシンジケート団が形成されていた。昭和40年度に発行された国債は、この国債引受シンジケート団と大蔵省資金運用部によって引き受けられた。シ団引受の一部は市中消化されたが、ほとんどはシ団メンバーの金融機関が保有した。
金融機関が引き受けた国債の市場売却は、事実上自粛されていたが。1967年1月より日銀は買入債券の対象に発行後1年経過の国債を追加した、これにより金融機関の保有する国債はほぼ全額このオペによって吸収されたのである。これが日銀の国債買入の始まりとなった。