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書評:中村高康著『暴走する能力主義』(ちくま新書、2018)

寺沢拓敬言語社会学者

筑摩書房 暴走する能力主義 ─教育と現代社会の病理 / 中村 高康 著

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読了。名著。

「コミュニケーション能力」「人間力」「21世紀型能力」「リーダーシップ」「批判的思考」etc.

現代の教育場面では、この種の「新しい能力」が称揚される。だが、実は――ともったいぶって言わなくても多くの人が既に知っているとおり――この手の非学校的能力の重要性は昔から叫ばれてきた。その意味で、古くからある「新しい能力」である。

本書では、こうした曖昧な諸能力が、現代社会で無秩序に増殖する背景を社会学的に分析している。もっとも、社会学には、葛藤理論的枠組みに基づいてこのテーマを検討した研究の蓄積は多いが、本書のユニークなところは、データ分析および社会理論(とくにアンソニー・ギデンズの再帰的モダニティ理論)を駆使して検討している点である。

 

英語の入試改革との関連

このテーマは、先日も批判した英語の入試改革(いわゆる「2020英語革命」なるもの)とも関連が深い(2020年に「英語革命」が起きるらしい(ただし、安河内哲也氏によれば)

もっとも、本書のアプローチである社会学をよく知っている英語教育関係者は多くはないだろう。しかし、本書は、英語教育の最重要概念のひとつである「能力」を正面から取り扱っている。その点で、関係者は必読の書であると思う。

とくに、結論部(第6章)の最後 (pp. 229-233) 、英語の四技能試験を含めた大学入試改革を論じている部分はきわめて重要。入試改革論議では、一方で前述の「古くからある新しい能力」がもてはやされ、他方で旧来型テストで測定される能力が、単なる「知識の暗記・再生」に過ぎないとして攻撃される。

しかし、現在の入学試験(推薦入試・AO入試など含む)が本当に知識の暗記・再生に過ぎないのか。実際、その反証は多数ある。しかし、「新しい能力」の推進派は意に介さない。

そこには、「新しい能力」を求めることが自己目的化した強迫観念が垣間見える。その強迫観念、つまり「新しい能力」への自己増殖的渇望を生み出すメカニズムこそ、本書が明らかにしていることである。

また、本書は「変化の激しい社会で生き抜く能力」という「使い古された」 能力観にも釘を刺す。

たしかに、英語スピーキング入試を導入する根拠として、この「社会の変化」はしばしば持ち出される。曰く、予見が困難な時代であり、このような時代には、思考力・判断力・表現力や、主体的・対話的で深い学びが求められる、と。

私たちが「新しい能力」であるかのように議論しているものは、実はどんなコンテクストでも大なり小なり求められる陳腐な、ある意味最初からわかりきった能力にすぎないものなのである。

そのように考えてくると、職業に求められる能力の質が大きく変化した結果としてこれらの能力が注目されるようになったと考えるよりは、全体として能力観が転換しているとの根拠のない前提のうえで、「ではどんな新しい能力が必要か」を無理やりひねり出そうとした結果、最大公約数的な陳腐な能力を、あたかも新しいものであるかのように、あるいはあたかも新しい時代に対応する能力であるかのように看板だけかけ替えて、その場を丸くおさめるといったことを繰り返してきたものなのだ、と考えたほうが、私個人は非常にすっきりする。

出典:同書, p.46

「今は変化の激しい時代 → 表現力・対話力が求められる → 英語でもスピーキング → 大学入試にスピーキング試験が必要」というナイーブな認識の人には、耳が痛い指摘だろう。あなたが「これからの時代に必要な能力」と思っているものは、実は昔から言われてきたものだったのだ。

何も感じない人は上記の引用を200回写経してほしい。

言語社会学者

関西学院大学社会学部准教授。博士(学術)。言語(とくに英語)に関する人々の行動・態度や教育制度について、統計や史料を駆使して研究している。著書に、『小学校英語のジレンマ』(岩波新書、2020年)、『「日本人」と英語の社会学』(研究社、2015年)、『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社、2014年)などがある。

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