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もう会えない大切な人への想いが集まる「漂流ポスト」ができるまで #あれから私は

水上賢治映画ライター
漂流ポストの管理人、赤川勇治さん

 東日本大震災の後、全国各地から亡き人への思いを綴った手紙が届く場所がある。

 「漂流ポスト」――そう名付けられた郵便ポストは「手紙を書くことで心に閉じ込められた悲しみが少しでも和らぎ、新たな一歩を踏み出す助けになるなら」との思いから建てられた。被災地である岩手県陸前高田市の山奥にあるポストには、今も多くの人から手紙が届き、その手紙は同じ境遇の人々へと開かれている。

 そして、この漂流ポストをモチーフに1本の映画が生まれ、現在公開中だ。

 被災地の心の復興に寄与する場所となっている「漂流ポスト」。このポストを建てたのは、岩手県に住むひとりの男性だ。赤川勇治さんがその人。漂流ポストの管理人として、現在も届く手紙を大切に大切に保管している。

27歳で会社を辞め、横浜から岩手へ家族で移り住む

 ただ、実は赤川さん、地元出身者ではない。横浜で生まれ育っている。

「もう50年近く前になりますけど、27歳までは横浜に住んでいたんですよ。

 みんなからよく『変わり者』と言われていたんですけど、もう大学生のときから、都会の生活が嫌で、いつか田舎暮らしがしたいと思っていたんです。

 もともとインドア派ではなく、アウトドア派。東京にいると、1日自然と触れ合うことがない日だってある。でも、ローカルにいけば、玄関をあけて、一歩出たらもうアウトドアを始めることが可能。そういう生活に憧れていたんです」

 そして、27歳のとき、会社を辞め、岩手への移住を決断する。

「当時、務めていた会社の出張で、月2回ぐらい東北を訪れていたんです。もう時効でしょうから話しますと(苦笑)、そのとき、仕事そっちのけで観光名所をまわっていた(笑)。

 ある時、中尊寺にいったんですけど、表参道を上ると途中に見晴台がある。ここからの眺めをみたときに『ここだ!』と。もう完全な一目惚れです。

 この近くで暮らしたいと思って、すぐに会社に辞表を出して仕事を辞めてしまった。

 そのとき、すでに結婚していて妻もいて、長女もいたんです。それで、妻に『会社を辞めることにした、岩手に移住したい』と伝えたら、さらに彼女は上手で『どうせなら北海道がいい』と(笑)。

 ただ、わたしはどうしても津軽海峡を渡るのだけは避けたかった。当時は青函連絡船の時代ですから、両親のことを考えると、車ですぐにかけつけられる陸続きのところにしたいと。東北自動車道と東北新幹線も開業が決まっている。それで岩手で妥協してもらいました(笑)」

「東京でなにか問題を起こして、こっちに逃げてきたのではないか」

と怪しまれた(笑)

 こうして夢をもって移住したわけだが、はじめは予期せぬことになったという。ただ、このときの経験が漂流ポストへとつながっていく。

「いろいろあって岩手の内陸部になる水沢に移り住んだんです。

 ただ、はじめは路頭に迷ったというか。いまでこそ、Iターンとか、Uターンとかいって、ウェルカムなイメージがありますけど、当時はそんな言葉はない。いまや『田舎暮らし』は憧れのセカンド・ライフのように語られますけど、当時はその言葉もなかった

 当時、田舎に憧れて東京から移住する人間なんてほぼいないわけです。

 ですから、『東京でなにか問題を起こして、こっちに逃げてきたのではないか』と怪しまれて(苦笑)。どこの不動産屋にいっても門前払い。近くに親兄弟、親戚がいるわけでもなく保証人の問題も重なって、どこも貸してくれない。

 その中で、ようやく理解していただける不動産屋さんにめぐりあって、なんとかなった。その後も、いろいろとありましたけど、水沢に住み続けて2人の娘も無事に育てあげることができました。

 岩手にきて、一度は打ちのめされてどん底を味わった。でも、そのどん底の状況から、手を差しのべて救ってくれたのもまた、岩手の人たちだった。いまはもう岩手という土地にも、岩手の人々にも感謝の気持ちしかない。

 その感謝の思いが、実は漂流ポストを建てることにつながっている。

 もし自分が地元・岩手の人間であったら、自身の性格からしてそういう考えに至ったかわからない。幸いなことに東日本大震災で水沢はほとんど被害を受けていませんから、他人事で終わっていたかもしれない」

実物の漂流ポスト
実物の漂流ポスト

 漂流ポストが置かれているのは、赤川さんが「老後を過ごすために」と購入した陸前高田市の山林の中だ。

「いまから30年ぐらい前に、土地を譲っていただいて、建物も20年ぐらい前に建て終えて、老後を過ごす準備をしていたんです。

 それで震災の2年ぐらい前、仕事をすべて辞めて、いよいよ老後をゆっくり過ごすために引っ越そうと思った。ところが妻はもう水沢に友だちもいっぱいいるので、『ひとりでどうぞ』と(苦笑)。

 ということで、震災の前の年に、ひとりで暮らすようになりました。

 地元の人も『あんなところに家を建てるなんてかわっているな』というぐらい山奥にあるんですけど、入ってくる人がいる。

 そのうち、ここで少し休ませていただいてもいいですかとか、ポツポツと人が立ち寄るようなことになりはじめて、ある方から、言われたんです。『ここの庭を解放して、お茶でも出してみたらどうか』と。

 で、悪ノリする性格なもので、コーヒーと紅茶だけ出すようになって、カフェのようになり、『ガーデンカフェ森の小舎』をはじめることになったんです」

 そして東日本大震災の日を迎えることになる。

「12~3月の初旬までの冬場は、小舎を閉めているんです。震災は、小舎を開けて、2日目のことでした。

 水沢の自宅に戻ろうとする途中で見た光景は忘れられません。あまりに痛ましく言葉を失いました」

 このとき、自然とわいてきた「自分になにかできないか」という思いが、漂流ポストへつながっていく。

「さきほども触れましたけど、岩手のみなさんには、家族でめんどうをみてもらった。岩手の人々の助けがあって、自分が、自分の家族のいまがある。その気持ちがありましたから、仕事を引退したぐらいから、岩手になにか恩返しができないかと考え続けていました。残りの人生で『なにかこの土地のお役に立てることをしたいな』と。

 その想いは、震災でさらに強くなりました。『なにか自分のできる支援はないか』と」

被災した常連客の要望もあってカフェを再開。

そこで被災した人々の苦しい胸の内を聞くことに

 震災から半年後、被災した常連客の要望もあってカフェを再開。そこで被災した人々の苦しい胸の内を聞くことになる。

「避難所などから被災した方々がカフェにお越しになるようになって、『亡くなった身内や友だちへの想いを話せる人がいない、話をきいてほしい』と相談されて、わたしでよければと話をおうかがいするようになりました。

 おそらくわたしが移住者だったので、みなさん周囲や過去を気にしないで話せたのだと思います。

 すると、わたしが話をきくだけで、うなずくだけで、はじめは思いつめた顔をされていた方が、なにかのつかえがとれたように気も晴れ、別人のようになって軽やかに帰られていく。

 なぜ、そういっていただけるのか、自分の頭がクエスチョンでいっぱいになりました。わたしは被災したわけでもないし、なにかを失ったわけでもないですから、なにもアドバイスできない。お話をおききしただけに過ぎない。でも、多くの方が『気持ちが少し楽になった』とおっしゃってくれる。

 そのときに実感したんです。『胸に秘めている大切な人への想いを吐き出すことが、その人が前を向く力になるのではないか』と。

 そういう日々が続く中で、次にわたしは、ここから離れたところに住んでいる人たちのことを考えるようになりました。『ここから離れたところで被災されたみなさんは、このカフェにいらっしゃる方々が吐露する胸のつかえをどうやって解消しているのか? 解消できずにずっとひきずって抱え込んでいるのではないか』と。

 東日本大震災で被災された方は遠くにもたくさんいらっしゃる。『そういった方々の思いも同様に受け止められないか』と。

漂流ポストに届いた手紙の数々
漂流ポストに届いた手紙の数々

 そのとき、閃いたのが手紙でした。手紙を書くときはペン先に自然と送る相手の顔が浮かんでくる。『これだ!』と思いました。『会いたいけれど、もう会えなくなってしまった人へ伝えられなかった気持ちや思いを手紙に書くことで、気持ちがちょっと楽になって一歩前へ進むことができるかもしれない。それは、心の復興につながるのではないか』と思いました。

 そして、そうした手紙が必ず届く場所を作ろうと思いました。わたしはその手紙を受け取る『ポスト』になろうと思いました。こうしてできたのが『漂流ポスト』です。震災から3年を過ぎて、4年目の2014年3月11日に開設しました」

(※後編に続く)

「漂流ポスト」より
「漂流ポスト」より

「漂流ポスト」

監督・脚本・編集・プロデュース:清水健斗

出演:雪中梨世 神岡実希 中尾百合音 藤公太 永倉大輔

公式サイト:https://www.hyouryupost-driftingpost.com/

筆者撮影以外の写真はすべて(c) Kento Shimizu

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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