樋口尚文の千夜千本 第154夜「劇場」(行定勲監督)
いじましき恋路を涼しく見つめて
今年は本来なら行定勲監督の当たり年で、本作『劇場』と『窮鼠はチーズの夢を見る』が相次いで劇場公開されるはずだったのだが、なんたることか不測のコロナ禍で公開が延期となり、配給も変わって公開サイズも見直しとなり、同時に配信でも公開するなど、かなり変則的な興行となった。しかし行定監督はそんな不運にめげるどころか、『A day in the home Series』と銘打って「きょうのできごと」「いまだったら言える気がする」といったリモート作品を配信公開したり、果敢な活動を展開している。
そんななかでもこの『劇場』は、行定監督のフィルモグラフィにあって特筆さるべき一本だろう。2時間16分に及ぶ長尺だが、物語の軸はごくごくシンプルである。高校からの同級生とともに劇団をつくった永田(山崎賢人)は脚本家と演出家を兼任しているが、公演の人気はぱっとせず、その狭量さから周りにも見放されている。その孤独な永田が、ひょんなことから出会った沙希(松岡茉優)の部屋に転がり込む。沙希は女優志望で上京してきたが、さしたる機会もなく、つつましく服飾の学校に通っている。金欠の永田は優しい沙希につけこんで、ちゃっかり家計も依存しきっている。だが、ひそかに永田の才能に期待している沙希は、その永田の図々しさを寛大に黙認しながら、静かに日々を過ごそうとするのだが……。
又吉直樹の原作に基づく本作だが、こう書いてみると呆れるほど1970年代の青春映画、それも履いて捨てるほどあった同棲物語のリメイクみたいではないか。『神田川』で人形劇にのめる草刈正雄の性格をいびつにしたような男子が『赤ちょうちん』の高岡健二みたいな適当さで女子の家に転がり込み、そこには『昭和枯れすすき』で服飾学校をさぼりながら悪さして孤独を埋める秋吉久美子を更生させたような女子が住んでいて、『同棲時代』の由美かおると仲雅美みたいな甘えた関係にはまってしまう……みたいな感じである。
なんとなく日本経済が失速して若い人がヒッピーみたいなファスト・ファッションや古着を着ているものだから、その70年代ぶり返し感はなおのことで、それでこんな四畳半フォークが似合う同棲物語のリメイクみたいな物語に、はて何か感ずるものはあるのだろうか。……と思いつつ、私はこの青春メロドラマがじわじわと映画ならではの哀切な感興を充満させてゆくことに感動した。その根拠は、物語とそこに生きる人物たちの挙動そのものというより、ずっとそれを一定距離を保ちながらたゆみなく見つめる行定監督のまなざしにある。
そういう意味では、かかる男女の恋愛の動静をやはり140分もの長尺をもって見つめた『ナラタージュ』が、それこそ行定監督の思い入れの強い原作の映画化であったはずなのだが、あの作品はやや惜しい気がした。というのも、『ナラタージュ』はまさにその監督の前のめり加減ゆえの熱量や、原作から移植された恋模様の波瀾の設定などが、この映画的な感情の静かなる凝集を妨げるふしがあって、観ていて誠意をもって施された強弱や起伏がすべて無用のものに感じられた。
だが、『ナラタージュ』と違って今回の行定監督は脂質が抜けたような涼しさで、この平凡で些細な恋愛の顛末を凝視……いや粛々と傍観し続ける。『ナラタージュ』でも引用されていた恋愛映画の極北、成瀬巳喜男の『浮雲』のことを思い出したのは、むしろ今回だった。成瀬の作品は、エモーショナルな人物、泥臭い情や欲にとらわれた人物を続々登場させるのに、作品を貫く成瀬のまなざしは、いつも涼しく澄明である。
そしてそんな淡々とした成瀬が愛着を示すのは、人物たちの金勘定をめぐる場面である。そこは表裏一体で、恋愛はきれいごとで固められるかもしれないが、その恋愛を成立させている生活の根拠は経済である。だから、恋愛を粛々と見つめてゆくと経済に突き当たるのであって、それが澄明なまなざしを担保する要件でもあるのだが、『劇場』においても金勘定の場面が印象的だ。不意に「せめて光熱費は払って」と切り出す沙希に、永田は「人の家の光熱費を払うのはどうか」とのらりくらりかわしながら、こういう話題にならないよういつもすっとぼけて来たことを告白する。別の場面でも、浮草のごとき文筆稼業でかせぐ大変さや、その収入を全部自分の好きなものだけにつぎ込んでいる後ろめたさへの言及がある。
成瀬が好んでこの生活の経済まわりを描くのは、こんなふうに人が思わず愚かさ、いじましさを露呈するからで、人というものを観察する面白さがみなぎるからだろう。また、その面白さが引き立つのは当然聖人君子ではなくて、『浮雲』で森雅之が好演する富岡のようなダメ男に決まっている。本作の永田はまさに小心でずぼらなくせに、プライドだけは高く見栄っ張りというダメ男で、よくよく知っていてライバル視している劇作家に「なんていう劇団でしたっけ」と問いかける小物ぶり(!)など、もういじましさの極致である。また、なんでこんな男にと思わずにはいられない沙希の献身ぶりも傷ましい(山崎賢人と松岡茉優はそれぞれを見事に造型している)。
こうしてごくありがちとも思わせる単線的な物語は、それゆえに恋愛から経済まで心もとないカップルの暮らし向きをじっと見つめる行定監督のまなざしの深度をふかめることとなった。そしてこのカップルがたどり着いた結末も、それはもうそういうものとして受け止めるほかはなく、押しつけがましくない詠嘆をもって映画は終わる。行定勲流の、もののあわれであった。