Yahoo!ニュース

コロナ対応は気合と根性だけでは難しい Jリーグ村井チェアマン「即断即決」の背景

元川悦子スポーツジャーナリスト
コロナ禍の苦境と立ち向かう村井チェアマン(Jリーグ提供)

 リーダーは有事にこそ、本領を発揮する。村井満チェアマンはコロナ危機に見舞われた半年間、Jリーグを存続させるために類まれな情報収集力と行動力を発揮してきた。

 振り返れば、2月26日に政府が大規模イベントの自粛要請した前日に公式戦中止を踏み切った。4カ月以上の中断を経て再開し、7月10日に有観客試合に移行した後も、感染者数の増加傾向にすぐさま反応。再び政府よりも早く現状の最大5000人収容を8月まで継続した。さらに、7月25日に名古屋グランパスで陽性者が確認されると、クラブと協議をして再開後初の試合中止を決断。「安心安全」を貫いた。

 なぜ、このように事態を先取りした迅速な判断を下せるのか。単独インタビューに応じた村井チェアマンが思いをはせるのは、ピッチで戦う選手たちのことだった。

「選手が感染したら、体が資本の選手はすべてを失ってしまいます。その苦しみを考えると、想像を絶するものがあります」

 今も難局と向き合う村井チェアマンの胸中に迫った。

2月に入って「これはただごとじゃないぞ」

「1月下旬から完全な臨戦態勢に入っていました。メモが1月11日からあるんですけど、世界の感染者数が41人・死者1人と最初に記してます。中国の武漢が閉鎖された前日1月22日の実行委員会時点では、J1~J3全クラブにコロナ担当者を置いて情報収集を地域ごとにやっていこうと決めました。

 コロナへの対応は気合と根性だけでは難しいので、情報は丁寧に取るようにしていたと思います。

 2月に入ってから『これはただごとじゃないぞ』という感覚になった。8日の富士ゼロックススーパーカップ(ヴィッセル神戸対横浜F・マリノス戦)の試合会場には5万人分のマスクを配る手配を済ませました」

「選手の心情を考えると胸がつぶれる思い」

 長年、人材ビジネスに取り組んだ経験から、情報収集を欠かさず、いち早く手を打つ習慣が身についていた村井チェアマン。百戦錬磨の経営者にとっても、そこから先は想像をはるかに超えた「いばらの道」だった。当初は「3月15日までの試合延期」とされたが、何回も先送りされ、4月7日の緊急事態宣言発令後は再開見通しが全く立たなくなった。日本野球機構(NPB)と共同で「新型コロナウイルス対策連絡会議」を設立し、ハイペースで会合を行ってきたが、専門家は試合再開には慎重な姿勢を取り続ける。「商品」である試合がない状態を強いられるクラブからは経営悪化を懸念する声も高まり、浦和レッズが今季10億円の赤字見通しを示すなど、Jリーグ全体が混迷を深めていった。

「再開日程を示すたびに、選手はそこにピークを合わせます。コンディショニングを何回もやり直しているので、メンタルにも相当影響があったはずです。私も『白紙』という表現をしましたけど、選手の心情を考えると本当に胸がつぶれる思いでした。

 クラブ経営や事業面を考えても、パートナーやスポンサーをつなぎ止められるのかという不安に襲われました。リモートマッチ(無観客試合)になった場合に経営が立ち行くのかも見通せなかった。暗いトンネルなのか、深い海の底なのか分からないですけど、そこを息を殺しながら歩いていたような気持ちでしたね」

7月26日の名古屋戦中止決断の際には、コロナ連絡会議の三鴨廣繁先生からも「英断」と称賛された。(写真:つのだよしお/アフロ)
7月26日の名古屋戦中止決断の際には、コロナ連絡会議の三鴨廣繁先生からも「英断」と称賛された。(写真:つのだよしお/アフロ)

本音をぶつけて、Jリーグの結束力を再確認

 しかしながら、村井チェアマンには数多くの仲間がいた。事務局スタッフ、Jクラブの社長、取引先の担当者と繰り返し会議を行い、ざっくばらんに本音をぶつけ合ったことで、Jリーグの結束力をより強く感じたという。

「これまでJクラブの社長で構成する実行委員会は月1回ペース。今年はここまでで30回以上も会合を持ったんです。そのための周辺との打ち合わせの回数たるや、本当に数分の隙間もないくらい(苦笑)。ずっとパソコンの前でディスカッションをしていましたし、56人の代表者と毎日話している感覚でした。

 こうした中で、地域の事情やクラブの置かれた環境、悩みや葛藤が山のように出てきた。感染者の少ないエリアと関東・関西圏では全然感覚が違いますし、その多様性をコロナがあぶり出したところもあった。そうしたことを再認識するいい機会になりましたし、密度の濃いコミュニケーションができ、大きな一体感を得ることができました」

最大の障壁に「もん絶した」5月下旬の1週間

 足踏み状態ながらも新たな発見の連続だった4~5月を乗り越えつつあった5月22日、村井チェアマンの前に最大の障壁が立ちはだかる。コロナ連絡会議で専門家からリーグを再開するためには「PCR検査をするのが望ましい」という提言が示され、その体制を短期間で構築することを求められたのだ。

「僕は5月29日に再開日程を発表すると約束していたので、その1週間は手探り状態でした。検査態勢を充足できるところが見つからない状態で本当にもん絶していた。もん絶どころじゃなかったと思います(苦笑)。選手を危険にさらしてまで試合を再開していいのかという自問自答がずっとありましたから。そんな中で旧知の知人のネットワークから一緒に考えてくれる人が現れた。幸いにしてPCR検査の目途が立ち、6月18日から実際に稼働させることができた。関係者への感謝の気持ちしかないですね」

リモートマッチから再開し、有観客へと移行したJリーグ。(写真:永田洋平/アフロスポーツ)
リモートマッチから再開し、有観客へと移行したJリーグ。(写真:永田洋平/アフロスポーツ)

コロナ禍ではシュートを打たずに慎重路線に

 6月24日、全選手やクラブ関係者らを対象に実施したPCR検査で全3070件がすべて陰性だったことが発表された。紆余曲折を経て、再び熱い戦いが始まったJリーグの風景を見て感じた思いがある。

「サッカーができる喜びあふれる選手の気持ちは、今、本物だと思います。選手のプレーを通じて、本気の戦いは見応えがあると思っていただきたい。

サッカーというのは失敗が起こり、心が折れ続ける競技です。ボールが来ることを信じて、逆サイドを走り続けるけど、ボールが来ない。それでも人のせいにはせず、信じ続けた結果、ゴールが生まれ、勝利するのがサッカーの本質なのかなと感じます。

 Jリーグはここ数年間、(インターネット配信の)DAZNとの大型契約やデジタル戦略、海外戦略などガンガン攻めて、シュートをたくさん打ってきました。でもコロナ禍ではマインドを変えて、心配性なくらい慎重にやろうとしています。私自身の学生時代は脇の甘いゴールキーパーでしたが、これからも打たれ強さが必要ですね(笑)」

「サッカーは絶対になくならない」

 再開から1カ月。Jリーグは混乱なく試合が続いていたが、7月25日に恐れていた陽性者が発覚。試合中止という事態に発展した。検査体制の拡充や試合運営手順の見直しの必要性が生じたうえ、8月以降の観客規制延長によってクラブ経営のさらなる悪化も懸念されている。さまざまな逆風が吹く中、「初代チェアマンの川淵三郎さんが言っていたように『走りながら考えるしかない』」と村井チェアマンは腹をくくる。そんな覚悟を持てるのも、一丸となって危機に向かう同志がいるから。「今のわれわれは本当にいいチーム」と彼自身も強調しているが、リーグにかかわるすべての人々の力を結集してコロナに打ち勝つ決意だ。

「有事の時は相手をリスペクトできているかが大事です。そういうところで、重要なジャッジがブレたり、右往左往するというのは僕も見てきたので、今のJリーグではそういうことがないように、日ごろから遠慮も忖度もない激しい意見のぶつかり合いをして、情報も隠さずに出しています。

 『魚と組織は天日にさらすと日持ちがよくなる』という言葉もありますけど、本当にその通り。自分のしゃべったことに対しての反撃は来るわけですけど、自分自身が壁打ちで鍛えられる(笑)。容赦ないブーイングを受けることで、欠けていた視点や足りなかったことに気づかされたりします。これからもJリーグはいろんなことが起きるでしょうし、難しい局面に立たされることもあると思いますけど、サッカーは絶対になくならない。そこは強調しておきたい点です」

サポーターのいる日常が少しずつ戻りつつある。(写真:森田直樹/アフロスポーツ)
サポーターのいる日常が少しずつ戻りつつある。(写真:森田直樹/アフロスポーツ)

 村井チェアマンは本音を包み隠すことなく語り、情報をオープンにしながら正々堂々と未曽有の困難を乗り切ろうとしている。

 任期はあと2年。コロナの完全終息はまだ見えないが、選手が安心してプレーできる環境を作り、熱狂と興奮に包まれるスタジアムを取り戻すことを村井チェアマンは最優先するに違いない。抜群のけん引力とサッカー愛を武器に、傑出したJのリーダーは必ずや有事を乗り越えてくれるだろう。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

元川悦子の最近の記事