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「白鵬は間違っていなかった」 元横綱・稀勢の里の荒磯親方がインタビューで明かした思い

飯塚さきスポーツライター/相撲ライター
写真:日刊スポーツ/アフロ

去る10月1日、横綱・白鵬が引退会見を行った。数々の大記録を打ち立て、まさに病める日も健やかなる日も、角界を双肩で支え続けてきた白鵬。かつて、その大きな背中を追いかけていた一人が、同じく元横綱・稀勢の里の荒磯親方である。白鵬の引退を受け、現在の率直な思いを伺った。

「白鵬がいなかったら、あの体験はできなかった」

――一時代を築いた横綱が引退されるというのは、荒磯親方にとって、率直にいかがですか。

「誰にでも終わりはあります。自分にとってはもちろん、相撲界にとっても、偉大な横綱がいなくなるのは非常に残念ですね。世代交代と言われながらも、最後は全勝優勝して、若手に弱い姿を見せずに引退するという引き際の素晴らしさも、白鵬関らしいなと思います。彼のやってきたことは、やっぱり間違っていなかったんですよね」

――白鵬関とはたくさんの思い出があると思います。振り返ってみていかがですか。

「本当に、思い出はたくさんあります。自分は、現役を引退して2年半以上経ちますが、つい一昨日のことのような、いまも鮮明に脳裏に浮かぶ出来事ばかりです」

――特に印象に残っている場面は。

「館内の歓声です。本当に忘れられないくらい、白鵬関のときは、ものすごいものでした。あれは、2013年の夏場所だったかな。自分はまだ大関でね。初日から13連勝して、14日目に白鵬関と当たったんです。その一番は、初めて声援で皮膚がつぶされるような、それくらいの声の“圧”を感じました。自分は、新横綱で優勝したこともありましたが、あのときの国技館の歓声に勝るものはなかった。つまり、白鵬関がいなかったら、あの体験はできなかったんです」

写真:日刊スポーツ/アフロ
写真:日刊スポーツ/アフロ

――白鵬関は引退会見で、親方が連勝を63で止めたことを記憶に残る一番に挙げていました。

「いやあ、名前を出していただいて、本当にうれしいです。一生懸命相撲を取っていてよかったなと思う瞬間でした。しかし、まず63連勝した白鵬関がすごいですよね。15連勝するだけですごいのに、それを63連勝なんて…同じ力士として考えにくい。もう、あの記録に近づく力士は当分出ないんじゃないでしょうか。白鵬関のおかげで、歴史的な相撲を取れてよかったと思います。あの一番があったからこそ、自分は大関に上がるきっかけをつかみ、横綱にも上がることができました。もしあの一番がなかったら、いまの自分はいません」

――白鵬関は大きな壁として親方に立ちはだかりました。

「目の前にいる強い横綱を倒さないと横綱にはなれないんだという気持ちでした。一生懸命稽古して力をつけないと、白鵬関とは戦えないと思い、大きな目標にしていたんです。初優勝して横綱昇進を決めた、2017年初場所の千秋楽は、前日に優勝が決まっていましたが、白鵬関を倒さないと横綱になる価値はないという気持ちで立ち向かいました。本来であれば、優勝が決まった14日目に鯛を持ってお祝いをするはずだったんですが、“まだ明日もあるので、千秋楽が終わってからにさせてください”と、当時の師匠の田子ノ浦親方にお願いしたんです。それくらい、千秋楽の白鵬戦にかける強い思いがありました」

――白鵬関とは計61回もの対戦がありました。結果は、白鵬関の45勝16敗。

「トリプルスコアくらいつけられてるよね(笑)。でも、負けて悔しかった分だけ強くなってきましたよ。地位こそ同じ“横綱”でしたが、白鵬関と自分とでは、記録から何もかもまでがまったく違います。鶴竜関含め、いまは同世代がみんな親方になっていて、白鵬関もこれから自分の部屋を持つと思いますから、いろんな意見を交換しながら、また一緒に相撲界を盛り上げて、強い力士を育てていきたいですね。これからは、いままで現役だったからこそ言えなかった話をしてみたいです」

荒磯親方の考える「横綱の品格」とは

――親方の土俵人生のキーポイントには、照ノ富士関もいます。いまの活躍を見ていかがですか。

「照ノ富士関は、ほぼ優勝間違いなしといわれていた2017年春場所で、新横綱でケガをしていた自分に負けているんですよね。当時は言葉も交わしませんでしたが、ものすごく悔しい思いをしたはずです。そこからさらに序二段にまで落ちたわけですから、想像を絶するほど何度も悔しさを経験したのでしょう。だから強いんです。まさに、流した涙の分だけ強くなっていく。自分は、勝てなくなったから引退しただけで、何もいいところはないですよ。照ノ富士関は、復活して横綱にまで上がって、本当に胸打たれるような軌跡です」

写真:日刊スポーツ/アフロ
写真:日刊スポーツ/アフロ

――照ノ富士関は何が変わったのでしょうか。

「最初に大関に上がったときといまの顔つきが別人になっているんです。経験などがすべて染みわたると、人間ってあんなふうに悟りを開いて落ち着いた顔になってくるのかと思うと、成長ってすごいなと思います。本当に強い横綱になりました。『あきらめたら試合終了』って、スラムダンクでそんな言葉がありますが、本当にそうだなと思います。照ノ富士関は決してあきらめずに歩み続け、日々成長し、本当に素晴らしいと思います」

――照ノ富士関はいま、横綱の品格を模索しています。親方にとっての品格とはどんなものでしたか。

「『平常心』。ただそれだけでした。横綱がやれば、それは横綱土俵入りだといわれるのと同じで、横綱が『これが品格だ』といえばそれが品格であり、定義はないんです。朝青龍関は『品格は強さだ』と言っていましたが、それはそれで朝青龍関らしくていい。いろんな横綱がいていいんだと思います。照ノ富士関は、いま改めて品格について考えるというより、いろんな経験があってここまできているので、すでに横綱になる準備ができていたのではないでしょうか。もう十分に品格はあると思いますよ」

――「平常心」をどのように保っていたのでしょうか。

「自分自身でコントロールするのは非常に難しいことです。だからこそ『心技体』で“心”が一番先に来るのかなと思います。よく、積み重ねが大事だといいますが、逆に積み減らしていくのも大切だということを、いろんな人から聞きました。積み上げてばかりだと、心の容量が満タンになって、余裕がなくなってしまうからです。現役時代の自分は、まさにそんな感じだったので、勝ったときこそ気持ちを切り替えるという意識をもっていました。勝負師は、負けたら気持ちを切り替えることが多いと思いますが、勝っても負けても切り替えて、心をゼロに戻す。何事も、引き算が大事なんです」

プロフィール

荒磯 寛(あらいそ・ゆたか)

1986年7月3日生まれ、茨城県牛久市出身。第72代横綱・元稀勢の里。本名は萩原寛。中学卒業後の2002年に鳴戸部屋に入門し、3月場所に初土俵を踏む。入門からわずか2年で新十両昇進を果たすと、その3場所後には新入幕。大関昇進前は、合計9回の三賞を受賞。17年1月場所で念願の初優勝を果たし、その後横綱に昇進。2年後の19年1月場所で惜しまれながら引退し、年寄「荒磯」を襲名。今年8月1日付で田子ノ浦部屋から独立し、荒磯部屋を興した。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています】

スポーツライター/相撲ライター

1989(平成元)年生まれ、さいたま市出身。早稲田大学国際教養学部卒業。ベースボール・マガジン社に勤務後、2018年に独立。フリーのスポーツライター・相撲ライターとして『相撲』(同社)、『Number Web』(文藝春秋)などで執筆中。2019年ラグビーワールドカップでは、アメリカ代表チーム通訳として1カ月間帯同した。著書に『日本で力士になるということ 外国出身力士の魂』、構成・インタビューを担当した横綱・照ノ富士の著書『奈落の底から見上げた明日』。

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