【富田林市】江戸時代伝わった黄檗宗の寺院、甲田の養楽寺には幕末の先駆け「天誅組」隊士の墓があります
富田林の甲田には、南河内地域では珍しい黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院、養楽寺があります。黄檗宗とは、江戸時代に中国から入ってきた禅宗の宗派のひとつ。
開祖は隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師で、インゲンマメを日本に持ち込んだという伝承もある人です。
さてこの養楽寺は、幕末の先駆けとなった天誅組と関係があり、また天誅組の天誅組河内勢でのリーダー的な存在だった水郡善之祐(にごりぜんのすけ)の墓が、ここにあることを知りました。黄檗宗寺院と天誅組との関係も含めて、調べながら現地に行ってみました。
最初に位置関係をおさらいすると、次の通りです。水郡善之祐が住んでいた水郡邸と養楽寺との距離が非常に近いことがわかります。どうやらこれが、両者の関係が深い要因である気がしました。
さらに調べると、養楽寺は水郡家の菩提寺であることもわかりました。それだけ関わりの深かった水郡家と養楽寺だからこそのエピソードが、幕末に天誅組が決起するときにありました。
時は1863(文久3)年、いよいよ天誅組が行動を起こすとき、参加する隊士たちが堺から狭山を通って、甲田にある水郡邸に集まります。
その後、水郡邸から河内長野の三日市宿や観心寺を経由して奈良県の五條に向かうのですが、このときにに参加した隊士の人数が多く、全員を水郡邸で宿泊させられませんでした。
そこで吉村寅太郎ら土佐藩からの参加者は、近くの養楽寺に宿泊したというのです。また本堂にある鐘を天誅組は陣鐘(じんがね:戦の合図で鳴らす鐘)として使うため、寺から持ち出してそのまま出陣したそうです。
一連の動きを考えてみれば、養楽寺が水郡家の菩提寺という関係だから協力的だったのでしょう。ちなみに鐘は明治維新後に返還されたそうです。
ということで、水郡邸から歩いてすぐのところにある養楽寺に行ってみることにしました。
寺の前に到着しました。ところが留守だったのでしょうか?残念ながら門は閉まっていました。
門に葵の紋がついています。調べると黄檗宗の紋で、「三葵(裏葵)」だそうです。葵の紋というと徳川家を連想しますが、当時は簡単には利用が許されないはずです。
そこで再度調べると、4代将軍の徳川家綱が黄檗宗を日本に伝えた隠元に尊崇(そんすう:心から敬う)していたというのです。
隠元は京都・宇治の地に黄檗宗の本山となる黄檗山萬福寺を17年かけて1661年に建立しますが、その際に幕府から寺領400石を拝領しています。そのときに裏葵の紋の利用を許可されたのでしょう。
中には入れませんでしたが、塀が非常に低く作られており、門の位置から敷地内の様子が見えました。ということで塀越しに敷地を見学させていただきました。
養楽寺の本堂です。黄檗宗は鎌倉時代に日本に入ってきた曹洞宗や臨済宗と比べ、中国の影響を受けた禅宗で、特に座禅を大事にしているとのこと。
お墓の位置も確認でき、あの中に天誅組の水郡善之祐の墓がありそうです。よく見ると奥に気になる墓が見えます。
すると見えました。右側にあるのが水郡善之祐の墓です。ということで塀の外から手を合わせました。
左側の墓にも「水郡」と書かれているようです。水郡家代々の菩提寺だからなんでしょうね。
ということで天誅組のひとりである水郡善之祐の墓があることが確認できました。敷地内にはこのほか、隊士の森本伝兵衛の墓(記念碑?)もあるそうです。
黄檗宗養楽寺
住所:大阪府富田林市甲田2丁目6-21
電話番号:0721-24-9875
アクセス:近鉄川西駅から徒歩7分