「暮らしの保健室」へ行ってみよう 人とのつながりで現代の病を予防する「社会的処方」とは
みなさまが思い浮かべる「お医者さん」のイメージって、どういうものでしょうか。
医療ドラマでよく見る大学病院のお医者さん?
あるいはブラックジャックのようなアウトローな腕利きの外科医?離島で働くコトー先生?
ドラマや漫画で見るドクターの姿は、千差万別です。
ステレオタイプなイメージが付きまといやすい職業であるからこそ、白衣を脱いでしまえばその人が普段どんな生活をしているのか、何を大切にしているのかは全く想像がつかないことが多いですよね。
本日ご紹介するのは、この春に武蔵新城に「暮らしの保健室」を開設した一般社団法人プラスケア代表・西智弘さんです。
川崎市立井田病院に勤務する医師である傍ら、地域コミュニティの中に入り、街の中で医療従事者が果たせる役割について新しいビジョンを示してくれる頼れる存在です。
暮らしの保健室
2017年3月に「暮らしの保健室」をつくるため、新たに法人を立ち上げてキックオフミーティングの準備をする西さんを当時、取材しました。
西さんが「自分が診てきた患者さんが持つ孤独や不安は、『社会とのつながり』によって解決できると確信した。その仕組みを地域に作りたい」と言っていたことを今でも鮮明に覚えています。
その後、たびたび街の中で西さんの姿を見かけました。
ある時はテーマ性のある本を選んで意見を交換し合う読書会で、ある時は街のお祭りで、ある時は珈琲のおいしいカフェで。
会う度ににこやかに誰かと会話をしている西さんからは、取材時に話していた「地域の包括医療」を自ら前に出て、街の方々に手を差し伸ばしながら実現しようとする様子がうかがえました。
そんな西さんが、コロナ禍を経て、ついに常設の「暮らしの保健室」を武蔵新城に開設したのは、今年の5月のこと。武蔵新城の、新城テラスの並びに開設されました。
これまでさまざまな街で開催してきた中で、拠点となる場所を持った今、どんなことを感じていらっしゃるのか、ここまでくる途中でどのようなことがあったのか、その胸の内を語っていただきました。
小学生の時に「医者になろう」と思った
西智弘さんは、北海道の釧路生まれ、湿原に近い大自然に抱かれ、6つ年上のお姉さんとご両親との家庭で育ちました。
近くに住む祖父が、家と伝統を大切にする昔気質の人で、強い影響を受けながら大きくなったといいます
「医者になりたいと思ったのは小学生の頃ですが、命を助けてもらったとかよく語られるような感動体験があったわけではないんです。
子ども心に医者ってかっこいいよね、みたいな単なる憧れでした。
仲の良かった友人から、俺は医者になるからお前は歯医者やれ、一緒のビルで開院しよう、と言われて。 待て待て、俺も医者がいいって(笑)。」
そういう話ができる友人は1人しかいなかったという西さん。
「わりと孤独だったんです。自分が好きなことを話しても、あんまり周囲から理解されなかった。最初のうちは『なんで通じないんだろう?』って寂しかったけど、だんだんとまあいいや、って話さなくなっちゃった。 いわゆるオタク気質で、気になったことは徹底的に追及しないと気が済まない。突き詰めて考えたりしていると、時間はないですしね。」
高校までは地元・釧路で勉学に励み、北海道大学の医学部へ入学します。
「家庭医療」と「緩和ケア」
大学ではバスケットボール部に入部。医者を志して勉強を始めてから部活は諦めてきましたが、ようやくやりたかったことがやれて充実感があったといいます。
バスケ部で出会った先輩が、西さんに「家庭医療」という領域の医療があることを教えてくれました。
「それまでは普通に脳外科が面白そうだって思っていたのです。しかし、バスケ部の先輩に『俺は臓器を診るより人を診たい、と言っている人がいて。その考えに興味を持ちました。
個々の臓器の専門医になるのではなく、1人の人間がなぜその症状になったのか、その人を取り巻くさまざまな環境要因を考えながら、総合的に癒していく。
そんな領域があるのなら、ぜひやってみたい。直感的にそう思いました。」
室蘭の病院で研修を受けながら、家庭医療の道を模索していた中、そこでまた出会いがありました。
「緩和ケア科で1ヶ月研修を受けた時に、実際に苦しみから解放されて退院していく患者さんの姿を目の当たりにしました。
末期のがんで病院に入院した人には、苦しんで死んでいく最期しかないのかと思っていたら、こんな医療があるのかと。
こんなやり方が世界で確立されているのなら、まずはその専門の知識を身につけたいと思いました。」
ハマりやすい西さんは、緩和ケアについて徹底的に調べ、川崎市立井田病院に市民による市民のためのホスピスを標榜した緩和ケア病棟があることを知ります。
「大抵、大きな病院の緩和ケア科では、そこに来た人に苦痛をとる処置をしてくれますが、他の病棟にそういう人がいてもケアできません。
しかし、井田病院の先生は、自分から手を伸ばしてそういう人を探して癒しにいく治療をしていたんです。」
2007年に西さんは、「地域がん治療連携拠点病院」としてがん患者を地域の中で見守っていた井田病院で研修を受けることを決め、川崎にやってきました。
地域に手を伸ばして
研修終了後、抗がん剤の勉強をするために栃木のがんセンターで3年間働くことになりました。
しかし、栃木に行く直前に元住吉に家を買い、そのメンテナンスのため、月に一回は元住吉に戻ってきていたそうです。よっぽどこの地域が気に入ったのですね。
西さんを惹きつけた街の魅力は、どんなところだったのでしょう。
「駅からの道を歩く時にすごく楽しい街だと思いました。
商店がたくさんあって、ちょっと仕事で嫌なことがあったとしても帰り道を歩いているうちに元気になれるのです。」
2012年に川崎に戻り、井田病院の緩和ケア科および腫瘍内科の医師として本格的に地域のつながりによって病気を治癒していく「社会的処方」に取り組むようになります。 そのきっかけになったのは、がんの再発を繰り返していた70代の患者さんの一言でした。
「わたしはもう1人じゃないって思えるから。がんが怖くなくなりました。」
緩和ケアの専門医として、抗がん剤で身体の痛みをとって患者さんを楽にしてあげることはできるようになりました。
しかし、病気になって死んでいく人の精神的な辛さをどうすることもできない。
そのことについて当時とても悩んでいたという西さん。
「その方がそう言ってくれたことで、気づいたのです。人間が孤独じゃなくなることは、こんなにも前向きに病気と闘う力を与えてくれるのだって。感動しました。」
人間の生きる力を奪ってしまう「孤独」を社会全体で取り除いていく、それこそが自分に課せられた使命だと気づいた西さん。
武蔵小杉のエリアマネジメントの活動の中に、現在の法人の前身となる「+Care Project(プラスケアプロジェクト)」を立ち上げ、社会的処方の大切さを説くとともに、「病気にならない街」をテーマに、運動や食事で病気を予防する取り組みを地域のさまざまな場所で行い、「暮らしの保健室」の開設に情熱を注いだのです。
社会的処方とは
2024年4月に施行される「孤独・孤立対策推進法」に向けて、政府の方針をまとめた「骨太の方針」にも「社会的処方」という言葉が明言されるようになりました。
私にとってこの言葉は、西さんから初めて聞いた概念でした。
前述の取材のなかでこの言葉を聞いた時には、あまりピンとこなかったのですが、その後も西さんは「社会的処方」を伝え続け、2020年には『社会的処方 : 孤立という病を地域のつながりで治す方法』という著書を出版しました。
この著書やSNSでの投稿を度々目にするうちに、私にもその重要性が少しずつわかってきたのです。
「自分や家族の身体が不調になると、気分が重くなり、1人で塞ぎ込んでしまう人は本当に多いです。
症状には本当はさまざまな要因があるのですが、病院で医師と話しても予約内の限られた時間で何も話すことができない人もいます。
そういう人に必要なのは薬よりも社会的なつながりなのです。気軽に心の不安を話せる場所があり、一緒に悩みをシェアできる人がいる、そういう社会的つながりを一人一人に提示していくのが社会的処方であり、その窓口となるのが暮らしの保健室なのです。」
西さんはよどみなく、会う人ごとにその大切さを説いていました。
コロナ禍を経た今、閣僚内で「孤独・孤立担当対策大臣」が新設され、「社会的処方」という言葉を用いて施策が盛んに国政でも議論されていると聞くと、いち早くその重要性に気がつき行動に移していた西さんの慧眼たるや、すごいものですね。
悩みや孤独と向き合って
コロナ禍と言えば、医療従事者である西さんにとっても大変な時期でした。
西さんは自分ができることから地域の方々に中に手を差し伸べ続けていました。
「ワクチンの悩み、疑問を解決しませんか?」とカフェの中で無料相談会を設け、時間が許す限り、訪れた方の不安や悩みを聞いていたのです。
「ネットにはいろいろな情報があり、明らかに間違っているものもあるので、不安に感じている方も多いと思い、相談会をはじめました。
接種を勧めることが目的ではなく、市民の方々の疑問や不安に応える機会を設けられたらと思っています。」
西さんのようなお医者さんがいるということがどれだけ街にとってありがたいことかと社会的処方の重要性を感じました。
孤独を取り除き、寂しさを癒すことをあえて特別な技能を持った医師が行う必要があるのかという疑問は、この時、納得に変わりました。
西さんは、医師であることよりも先にひとりの人間としての使命を果たそうとしているのかもしれないと思ったのです。
「別にこれをやるのが医師じゃなくてもいいのですが、医師だから信頼してくれてつっこんで話してくれるということもあります。僕も暮らしの保健室にいるときは、あんまり医者としてそこにいる感覚はなくて、医療知識のある住民のひとりくらいの感じでいます。
アドバイスをするわけでもないのです。ただコミュニケーションをとる中で、『私はあなたのがんばりを知っていますし、味方ですよ』と伝えることが大切と思っています。」
地域に根を張って、枝葉を伸ばしていく
2021年、ケアプラスのスタッフである石井麗子さんが、島根県の雲南市にあるコミュニティナースカンパニーに1年間出向し、新たな学びを得てきました。西さんも実際にそこに足を運んだことで、以前から考えていた地域に拠点を持つという気持ちが固まりました。
「雲南市では、大きな民家を借り、そこにコミュニティナースが常駐して仕事をしたり、研修を受けたりしていました。地元の人たちがいつでも自然に入ってこられる雰囲気があった。日常の中に活動があるのがいいな、と思ったのです。会議なんかも週一で決めたルーティンで行うのではなく、毎日の営みの中で会話がうまれて、自然に始まる。こういうのは拠点があるからできることだと思いました。」
長く地域で活動してきた西さんには、地域に頼れる仲間がたくさんいました。武蔵新城で新築物件を建てていたセシーズイシイの大家さんに相談すると、すぐに「空いている部屋があるよ」と今のお部屋を勧めてくれたそうです。
「経営者としては、活動に固定費がかかるのは厳しいため避けてきたところはあったのですが、きちんと誰かをお迎えできる環境を整備するのにはやっぱり自分たちの場所がないといけないと思い切りました。
路面だし、そこを歩いている人とすぐにコミュニケーションがとれてとってもいい場所です。」
「暮らしの保健室」は、基本的には400円/回で話を聞く場所。
コーヒー1杯分の価格で時間制限はなく、それだけでは当然、固定費はまかなえません。寄付や会費、西さんの講演費などで維持されています。
それを社会的投資として、さまざまな人に理解してもらう努力を西さんは怠りません。
常に興味を持ってくれる人を探し、その重要性を説き、本を執筆します。来年2月には、社会的処方に関する二冊目の本の出版が決まっているそうです。
「ここで拠点を持つことには、他にも目に見える面白さがあります。街に根付いて、横のつながりができていくこと。ここにいるスタッフが、街の人たちに顔を知られて彼らに会いに行こうと思ってくれる。もともとおせっかいな人が多い街なのです。」
以前コスギーズ!の記事でご紹介した、NPO法人「みどりなくらし」の堀由夏さんも、同じことを言っていました。
「あなたのところでこれできない?」「ああ、そういう悩みなら西さんの『暮らしの保健室』へ行ってみて」と、コミュニティの中で知り合い同士が網のようにつながっていてどこかから話がやってきます。
「誰かから紹介されたってうちの保健室に来てくれる人がいるとすごく嬉しいです。街の中にたくさんの窓口があって、様々なコミュニケーションができて、孤独な人を作らないネットワークがあるのだなって。」
拠点は持ちましたが、今までやってきたコミュニティスペースでの暮らしの保健室も引き続き開催しています。
利用したい方は、カレンダーをチェックしてご自宅から近いところへ行ってみてくださいね。
人を信じるといいことあるよ
「講演などでいろいろな街に行くのですが、こんなふうに人がやることを『いいね!』って手放しで応援してくれる街はなかなかないですよ。まず否定から入るような人が多い場所もありますから。」
そう話す西さんは、今、この街にいられることがとても楽しそうでした。
周囲から理解してもらえずに孤独を感じたこともあった少年時代の自分に声をかけるとしたら?
「人を信じるといいことあるよ、ですかね。」
命が尽きるその瞬間まで、人間が一生懸命に生きる心を支えることが医療であると信じて街の中で活動し続ける西さんは、自分に人を信じることを教えてくれたこの街に恩返しをしようとしているようにも見えました。
「気軽に雑談をしに来てください。相談ごとがなくても、内容が漠然としていても大丈夫です。」
そう言って、今日も暮らしの保健室の扉をあらゆる人に開いています。
本記事は、昨年の10月に、武蔵小杉東急スクエアさんの媒体「この街大スキ武蔵小杉」に掲載されたものを、許可を得て転載しています。
西さんのプロフィールなど載っているので、もそちらの媒体もぜひ、併せてお読みいただけると嬉しいです!
暮らしの保健室 川崎
住所: 川崎市中原区上新城2-7-5
オープン時間:水曜日〜土曜日の10時〜16時
公式サイト:一般社団法人プラスケア