将棋で取った駒を使うのは捕虜虐待? 1947年、升田幸三がGHQに呼ばれた件
「升田幸三がGHQを論破した! だから将棋は禁止されなかった!」
そんな調子の話が、ネット上では周期的にバズるようです。事実なのか。それとも創作なのか。最初に筆者の見解をまとめると、次の通りです。
・1947年に升田幸三八段(当時、のちに名人)がGHQに呼ばれたのは事実と見るのが妥当。
・升田八段が将棋とチェスの比較論を展開し、GHQ高官たちの度肝を抜いた話は具体的かつ詳細で、大筋で本当ではないかと思われる。
・ただし伝わっているのは升田本人の証言のみ。相手方の速記録などは知られておらず、どこまで本当かは現在のところ、確かめようがない。
・「升田がGHQの高官たちを『論破』したから将棋は禁止されなかった」という史実はおそらくない。升田自身もそんなことは言っていない。
筆者がいま参照できる資料の限りでは、升田著『歩を金にする法』(1963年、講談社刊)での一文が、この件に関するもっとも古い記述と思われます。また後年広く読まれた自伝『名人に香車を引いた男』(1980年、朝日新聞社刊)ではさらに詳しく書かれてあります。
本稿では本人の証言に沿う形で、当時の将棋界の状況を踏まえながら、経緯をまとめてみたいと思います。
升田幸三は戦争中、南洋のポナペ島(ポンペイ島)に出征。前線で生死の境をさまよいました。戦争が終わって日本に帰ってくると、将棋界で実力通りの華々しい活躍を始めます。1947年当時は八段に昇段したばかりで、年齢は29歳でした。(以下同様に年齢は当時)
戦前から長く将棋界の第一人者として君臨していたのは木村義雄名人(42歳)です。升田八段の目標は木村名人を倒すことでした。両者は盤上だけではなく盤外でも激しくぶつかり合う仲となりました。
1947年、升田八段に先んじて名人戦七番勝負で木村名人に挑戦したのは塚田正夫八段(32歳)でした。木村名人は2勝4敗(1持将棋2千日手)で敗退し、名人位を失冠。将棋界は名実ともに新しい時代を迎えることになりました。
木村前名人は運営面では将棋大成会(同年に日本将棋連盟に改称)の会長に留まります。木村前名人は将棋が強いだけではなく、人格的にも傑出した存在でした。
升田八段は木村前名人とは人間的にも相性が合わなかったようです。そのため、木村前名人に関するいろんな批判もしていますが、客観的に見れば、将棋界のまとめ役は依然、木村前名人の他にはいなかったでしょう。
そんなときになぜか、木村前名人ではなく、升田八段がGHQ(General Headquarters、連合国軍最高司令官総司令部)に呼ばれることになります。
GHQは終戦後の日本で大変な権限を持っていました。そうした状況で、武道などは禁止されていた時期もあります。
では日本古来のボードゲームである将棋はどうだったか。筆者がこれまで過去の文献などを読んできた限りでは、将棋を禁止しようという具体的な記録は見た記憶がありません。
「将棋界はその存亡をかけ、新時代の旗手にして論客の升田を代表に立て、GHQとの論争の場に送り込んだ」
もしそんな筋書きがあればドラマチックです。しかしおそらくは史実とは遠いように思われます。実際、升田著にもそうした旨は書かれていません。
升田八段は朝日新聞の嘱託を務めていました。東京の朝日新聞に出向いた際、業務局次長から声をかけられます。
その経緯からすれば朝日新聞のルートで打診された話と推測するのが自然でしょうか。
酒を飲みながら人と話をするのが升田八段の習慣であり、また難しい質問をされたらトイレに立つという作戦でもありました。以下、升田八段とGHQ側のやり取りすべてが面白いところですが、それは著書を読んでいただくとして、以下が核心の部分です。
升田元名人は将棋も天才ならば、話術もまた天才的でした。その面目躍如、というところでしょうか。(もちろんチェスと将棋、どちらが文化的など優劣がつけられるような話ではなく、どちらも奥が深く優れたゲームです。念のため)
以上は波乱万丈な升田の生涯の中でも異彩を放つエピソードで、将棋を題材とした小説や漫画などでも、少しずつ形を変えながら出てきます。
長くなりますので多くの部分は割愛しますが、興味を持たれた方はぜひ、升田元名人の著書をご覧ください。
「将棋を禁止する前に、棋士に弁明の機会を与えた」というわけではなく、GHQ側がそれほどの目的はなく話を聞く場であったと考えるのが妥当と思われます。
いかにも升田節という一文で、この話は締められています。もし本当にそれで吉田首相がやりやすくなったのなら、なるほどGHQをやりこめた升田幸三はすごい・・・となりますが念のため、本当かどうかは確かめようがありません。升田元名人はサービス精神からか、そんな調子で話をする人物であった、というわけです。
惜しむらくは筆者の知る限りでは、升田八段とGHQ高官とのやり取りを裏付ける記録は見たことがありません。どこかでそうした速記録などが発掘されれば、将棋界にとっては一大ニュースとなるでしょう。
繰り返しとなりますが、升田八段がGHQに赴いたのは事実でしょう。
升田-パロット戦は『将棋とチェス』1950年2月号にも掲載され、国会図書館のサイト(要登録・ログイン)でも見ることができます。「捕虜を戦争に使用するとは何たる事だ、日本人は国際法を・・・」というチェスプレイヤー側の言葉も紹介されています。また、ネクタイにスーツ姿の升田八段の姿がカッコいいので、ぜひご覧ください。