【京都市南区】足利尊氏を守った門や土塀 空海のために花を咲かせた門 外周めぐりで楽しめる東寺の魅力!
世界遺産として、金堂や講堂、五重塔を中心に数々の国宝や重要文化財を有する「東寺(教王護国寺)」ですが、外周をめぐるだけでもその魅力は満載です。2023年8月18日の早朝にゆっくりと散策してみました。まずは東門です。国の重要文化財に指定されているこの慶賀門(けいがもん)は、鎌倉時代前期に造られた八脚門です。東寺の正門は、南大門ですが、大宮通りに面し、バス停前にもあたるため、事実上の参詣者入口となっています。
重要文化財の東大門 (とうだいもん)にはこんな逸話が残ります。建武3年(1336年)に南朝方の軍勢が東寺に陣する足利尊氏を攻めたてま した。糺の森、賀茂川、桂川、六条大宮などでの激しい攻防戦の末、尊氏は東寺に退却します。新田義率いる二万の軍勢が大宮通りから、名和長年率いる軍勢も猪熊通りから東寺に迫り、痛手を負った足利軍の武者たちが東大門に流れ込みました。
尊氏は最後の軍勢が入った途端にこの門を閉め、危うく難を逃れます。それ以来、この門は「不開門(あかずのもん)」と呼ばれています。東大門には、その時の戦闘の凄まじさを物語る、敵 方から打ち込まれた何筋もの矢の痕が、今も残されています。この後、尊氏は形成を逆転、北朝方を勝利に導き、後に室町幕府が開かれることとなります。
方四町の敷地を有する東寺の外側を延々と囲む「大土塀」は内側に傾いて、どっしりとした重厚感があります。かの司馬遼太郎に「大好きなのは御影堂と大土塀」と言わせた重要文化財です。現存する東築地塀の大部分は、文禄5年(1596年)の大地震で崩壊した後、豊臣秀頼によって慶長3年(1598年)頃に再建されたものです。
東築地塀の解体修理に伴い2014 年 6 月に行われた京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査では、伽藍の四方を囲む築地塀にも 1200 年の歴史が詰まっていることが明らかとなりました。平安時代の版築(土を建材に用い強く突き固める方法)を基礎として、現在に至るまで、同じ位置にその時代の版築が積み重なっているようすは、悠久の時の流れを感じることができる貴重な歴史的遺産です。東寺はすべての建物が数々の再建はあるものの、平安時代と同じ場所に、当時とほぼ変わらない伽藍配置で佇んでいます。
南大門は、東寺に現存する門の中で最大の門ですが、楼門に仁王像が安置されたかつての南大門は、明治元年(1868年)の廃仏毀釈の際に焼け落ちてしまいました。現在の門は、東寺創建1100 年の明治28年(1895年)に、蓮華王院(三十三間堂)の西門を移築した八脚門です。以上の経過で 仁王像はありません。東寺の中では珍しく、桃山様式によるきらびやかな装飾をたくさん見ることができます。南大門は唯一平安京の地図作成時の定点となっていることでも知られます。
天皇を迎えるための施設である小子房はかつて足利尊氏が奉ずる光厳上皇の御所ともなりました。その西側、庭の奥にあるのが、国宝の蓮花門です。弘法大師空海が晩年、隠棲のために高野山に向かう際に最後に出た門と言われます。多くの人々が別れを惜しむなか、空海自らが念持仏として西院に祀っていた不動明王が、この門に現れ見送ったと伝承されています。その不動明王の足下や歩んできた跡に蓮花が咲いたといわれます。
重要文化財に指定されている八条通りに面した北総門は、鎌倉時代後期に建立された四脚門です。北総門から北大門までの白い石畳の道、櫛笥小路(くしげこうじ)があります。京都は秀吉入洛の時代に行われた大改革もあり、平安時代の位置と道幅が変わることなく現在に至る通りはここしか残されていないのだとか。
通りには、今なお、弘法さんの虚空蔵参り(十三参り)の風習が残る五大虚空蔵菩薩や北政所おね再建の国宝客殿、宮本武蔵の襖絵がある観智院などの魅力的な東寺塔頭群が軒を連ねます。外周巡りだけでもこれだけの魅力があります。
ぜひ境内の参拝と合わせてゆっくり楽しんでください!
「東寺(教王護国寺)」(外部リンク)京都市南区九条町1番地 075-691-3325