日揮とテロ事件 ー大手メディアは実名、ネットは匿名支持、両者の「溝」について考えた
毎日のように次から次へとニュースが発生するので、やや遠い事件のようにも思えるが、今年1月から3月ぐらいまで、アルジェリア人質事件で犠牲者の実名をいつどのように報道するかで大きな議論が起きた。
この件について、月刊冊子「メディア展望」4月号(新聞通信調査会発行)に思うところを書いた。以下はそれに若干補足したものである。
この問題については、電子雑誌「ケサラン・パサラン」14号に浅野健一同志社大学大学院教授が論考(アルジェリア犠牲者報道問題だけではない 日本メディアの問題点 「実名報道」による「報道被害」を放置・容認してもよいのか?)を寄せている。教授の記事もご参照いただければ、より理解が深まるように思う。
なお、この問題については賛否両論の論点がひとしきり、出尽くしたと思う。私は賛成派と反対派の溝に注目した。長いので、強調したい部分は太字にした。
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今年1月中旬、アルジェリア・イナメナスの天然ガス精製プラントで、イスラム武装勢力による人質拘束事件が発生した。アルジェリア軍による掃討作戦で日本人10人を含む外国人多数が死亡する痛ましい結果となった。これに付随して、日本国内では犠牲者の実名報道の是非について、大きな議論が沸き起こった。実名報道をジャーナリズムの基本に据える大手メディアと、遺族の感情に配慮して匿名も可とする国民との溝の深さが露呈した。
本稿では、この2つの考えの溝に注目した。匿名を支持する国民の声の中にはマスコミへの大きな不信感が垣間見えたが、何故こうした不信感が出るかの検証は大手新聞、テレビ界の将来にとっても、極めて重要と思える。
ここで取り上げる「国民の声」は、主としてネット空間で発された言論だ。国民全体を代表するとは言えないかもしれないが、時代の変化に敏感に反応するネット利用者の発言は考察の対象に値する。
実名報道が問題視された経緯、諸外国の事例、匿名報道が原則のスウェーデンの例などを紹介したい。
―英国は遺族の意向を尊重
事件発生から一ヶ月ほどの経緯を、英国の視点から振り返ってみる。
アルカイダ系武装勢力「イスラム聖戦士血盟団」がアルジェリア南東部イナメナスの西南に設置されたガス精製プラント(アルジェリアのソナトラック、英BP、ノルウェーのスタトイルなどによる合弁事業)を襲撃したのは、1月16日のことである。日本企業日揮の社員、派遣社員などもここに勤務していた。アルジェリア人、外国人など多数が人質となった。17日からアルジェリア軍が掃討作戦を開始する。21日までに武装勢力の駆逐に成功するが、この間、日本人10人を含む30余人が命を落とした(3月末の判明時点)。
人質の数や国籍、その後の死亡者の情報は刻々と変化した。キャメロン英首相が「英国人3人が死亡」と述べたのは、事件発生から4日後の20日であった。このとき、個人名は出さなかった。BP側は「18人がプラントに勤務していたが、身元情報はプライバシー保護と家族の依頼で公表できない」と同日のウェブサイトで述べた。
21日には、海外での英国人の身元情報を管理する英外務省が、遺族の同意を得て、犠牲者の個人名の一部を公表した。この日から、英メディアは独自取材で亡くなった英国人の実名を報道していく。外務省は自らが個人情報を出すのではなく、メディアが取材して分かった情報を外務省に問い合わせ、外務省が遺族の確認をした後、問い合わせに返答した。
BPが亡くなったBPの従業員3人の名前と経歴をウェブサイト上に出したのは28日だ。4人目は「身元情報を出せない」とした。4人目の名前を公表したのは2月12日である。同日、BBCは、英国側の犠牲者は7人(BP関係者4人とほか3人)であったと報道した。
ここまでの話が少々細かくて恐縮だが、英国では全員の実名が出るまでに、事件発生から一ヶ月弱かかったということだ。
2月4日には、外務省が報道陣に向けてメールを流し、翌週の英国人2人の犠牲者の葬式への取材を控えること、遺族や関係者への取材ではプライバシーに考慮するよう呼びかけた。
毎日新聞(2月2日付)によると、政府が犠牲者名を発表したのは米国、フランス、アルジェリアである。
「米国務省は(1月)21日に米国人犠牲者全員(3人)の実名を発表。しかし、国務省は『遺族のプライバシーを尊重し、これ以上のコメントはない』と付け加えた」という。
フィリピン政府は遺族の意向で犠牲者の名前を公表せず、メディアは独自取材で実名報道した。ノルウェーは「行方不明5人(その後全員死亡確認)の名前を企業(スタトイル)が発表した」。
各国によって対応にばらつきがあること、遺族の意向やプライバシーが重要視されていることが分かる。
―日本では実名報道の是非が大問題に発展
1月16日の人質拘束から翌日のアルジェリア軍による攻撃作戦、これが終了する21日までの数日間は、作戦の意図、経過、人質の人数、国籍、犠牲者数などの重要情報が錯綜した時期である。
正確な事態把握が困難な中、日本では政府や日揮が犠牲者の身元情報を出さないことへの不満感がメディア側に募っていたようだ。週刊「新聞協会報」(1月29日付)から政府・日揮側とメディアとの対立の経過を拾ってみる。
「事件発生から5日後の(1月)21日、日揮の日本駐在員7人(筆者注:後に10人と判明する)の死亡が確認された」、官房長官が同日の会見で「ご家族や会社の方々との関係もあるので、(氏名の公表は)控えさせていただく」と説明。翌22日、内閣記者会が「官邸報道室を通じ被害者の氏名・年齢公表を文書で申し入れた」。この日、朝日新聞が一部の犠牲者氏名を報道している。
政府が亡くなった10人の氏名を公表したのは、「遺体を乗せた政府専用機が羽田空港に到着した25日。内閣記者会の常駐する記者室に貼りだし、国会記者クラブ、国会映放クラブ、国会民放クラブにファックスで送信した」。この後で会見した官房長官は、「遺体の帰国後、家族と対面するタイミングを捉え、政府の責任の下に公表することが適当」と判断したと説明した。年齢、出身地、住所は「遺族の意向」で発表しなかった。
日揮の川名浩一社長が同日、会見を開き、「政府発表以上の詳細な情報の発表は差し控えたい」と語っている。「本人、家族や遺族にこれ以上のストレスやプレッシャーをかけてはならないという考えが根底にある。この考えは決して変わらない」と述べている。「決して」と言う部分に固い決意が見て取れる。3月末の時点で、日揮自身からの被害者氏名の公表は実現していない。
メディアによる被害者情報の開示要求は、21日前後から、思わぬ反響を呼んだ。国民の代表としての情報開示要求だったが、ネット利用者を中心とした国民の側は遺族への配慮をより重要視し、マスメディアへの反発が膨らんだ。
実名報道の是非についての対立が明瞭になった1つの例が、1月21日、毎日新聞社会部長小川一氏がマイクロブログ・サービス「twitter」でつぶやいた発言である。「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証は、その名前にある。人生の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」。これに対し、「そっとしておいてほしい」(yokorocks)、「報道機関っていうのはホント悲しみを食い物にして視聴率や部数で利益を欲しがる、そんな強欲なセイブツなんだろうか?」(northfox_wind)というツイートが続いた(表記は原文のまま)。
22日、犠牲者の一人の甥、本白水智也氏が自分のブログで、「実名を公表しない」という約束で対応した朝日新聞の取材にもかかわらず、掲載された記事には実名とフェイスブックの写真が「無断で掲載されていた」と書いた。「ただでさえ昨夜の発表(注、叔父の死の政府発表)を受け入れるのが精一杯の私たち家族にとって、こんなひどい仕打ちはありません。記者としてのモラルを疑います」と批判した。
23日、本白水氏は「叔父の子供が住むマンションに報道各局が押し寄せ」、「近隣に迷惑をかけて」いる、「やめてくれ」とツイートし、同日、朝日新聞社長にあてた抗議の書簡を出した。
同じ日、ITジャーナリストとして著名な佐々木俊尚氏(元毎日新聞記者)が自分のブログで、先の小川氏のツイッターに間接的に触れ、「新聞記者は『一人の人生を記録し、ともに悲しみ、ともに泣くため』などと高邁な理想で被害者の実名報道の重要性を語るけれども、実際にやっているのはメディアスクラムで遺族を追い掛け回しているだけ」、と書いた。Twitterで17万人を超えるフォロワー(Twitterの呟きを追う人)を持つ佐々木氏の発言は、ネット界で大きな影響力を持つ。
この日の夜、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」が、当時分かっていた7人の犠牲者の名前を報道した。日揮の要請を受けて、政府は犠牲者の名前を公表していなかったが、「喜怒哀楽を抱えて生きてきた人生」が「断ち切られてしまった」その無念を「お名前で伝えさせていただく」と司会者が前置きをしての報道だった。この実名公表の決断は、ネット空間で大きな批判の嵐を呼び起こした。
一方、24日付の産経新聞記事では、岡田浩明記者が、政府が死亡者の氏名や年齢を公表しないでいることについて「説明責任の観点から情報隠蔽(いんぺい)の批判にさらされかねない」と書いた。
こうして、25日の政府による正式発表以前、マスコミ側の焦燥感は募るばかりとなった。
同じ頃、Yahooのニュースサイトに設けられたクイックリサーチ(簡単な質問にウェブサイト上で答える仕組み)によると、「氏名を公表すべきだ」が1万6335票(約30%)、「公表すべきではない」が3万7241票(約70%)で、ネットユーザーの圧倒的多数が「公表すべきではない」を支持していた。
元産経新聞ロンドン支局長で現在はフリージャーナリストの木村正人氏は、実名報道を求める報道機関と集団的過熱取材による報道被害を懸念する市民感覚との「かい離」を、自分のブログ(23日付)で指摘した。
同氏は同日付で数本の投稿を行い、その中の1つ(「僕は『Aさん』では死にたくない」)では、「みんなで泣き叫んだり、怒ったり、笑ったりする記憶を共有する社会は『匿名』の中からは生まれてこない」と書いた。
一連の木村氏のエントリーには多くの否定的な意見が寄せられた。「悲しんでいる遺族の所にマスコミがメディアスクラムを組んで押しかけるのは許されない」、「遺族が否定する犠牲者の氏名をマスコミは何の権利があって公表するのか」など。
木村氏は、「高度経済成長を経て、次第に個人の権利意識が高まり、プライバシー保護が重視されるようになった」現在、「匿名発表」や「匿名報道」が市民権を受けるようになったのに対し、マスコミは「なぜ実名報道を原則とするのか」の「十分な説明を怠ってきたのではないか」と問いかけた。
全国の新聞社が加盟する日本新聞協会は、2006年末に出版した小冊子「実名と報道」の中で、実名報道の意味を、「訴求力と事実の重み」、「権力不正の追及機能」、「被害の事実と背景を広く訴える」、「実名の尊厳」(氏名は人が個人として尊重される基礎)として挙げる。
実名報道の現状を英国に留学して研究した経験を持つ共同通信の澤康臣記者(ニューヨーク支局次長)は、「ニュースは社会に生きる一人一人が何をし、何に巻き込まれたかを記録し伝えるもの。どんな人でも社会と歴史の主人公だというのが実名報道の立場だと思う。でもそれは時に大変残酷で、申し訳ない面を持つ。それを重く受け止め謙虚に取り組むべきだ」と筆者に語る。
実名公表の是非議論を通して、メディアスクラムに対する一般市民の嫌悪感、メディア報道への不満が一気に噴出したが、時事通信社会部の柴田裕之記者は「新聞協会報」の署名記事(3月5日付)の中で、一連のメディア批判は必ずしも正しくなかったのではないかと疑問を投げかける。
同氏は、犠牲者や生存者を独自取材で割り出す取材を続けたこと、慎重に遺族取材を進めたことを記す。日揮側の「遺族にストレスを与えたくない」としたコメントがネット上で「断片的に引用され」、「メディアスクラムを既成事実化する書き込みが散見された」と指摘し、「事実と異なるメディア批判の呼び水になったとすれば残念というほかない」と書いた。
―スウェーデンでは
犯罪事件の被疑者、被告人を匿名で報道するのがスウェーデンだ。
月刊誌「Journalism」(2009年5月号)に掲載された、高田昌幸氏(当時北海道新聞記者、現在高知新聞記者)の現地取材によると、スウェーデンでは、「政治家・公務員、大企業経営者らが職務に関して犯罪や不正を働いた場合を除き、一般私人の犯罪は判決確定まで、ほとんど匿名で報道する」のが常だという。
高級紙スベンスカ・ダーグブラーデットの編集局次長は「名前や現場住所を抜いても詳細な報道はできるし、読者は容疑者氏名を知らずとも、事件の背景、問題点は理解できる」と高田氏に語り、大衆紙アフトン・ブラーデットの編集局次長は、「司法のプロセスをきちんと伝えるのが報道の役割だ」、「容疑者逮捕は警察の仕事であってメディアの仕事ではない」と述べた。
英国では、報道する側つまり記者の署名記事も含め、事件事故報道でも実名報道が原則だ。ただし、性犯罪の被害者及び18歳未満の未成年が加害者になった場合にのみ、匿名となる(重大事件は別)。実名報道の歴史があるので、事件発生時には実名が出るという認識が社会の中で共有されている。
国際的な犯罪事件、テロ事件が発生すると、英外務省・政府は外部に公式に出す情報について非常に慎重になる。犠牲者、負傷者情報の公表は、家族・遺族の了解後になるが、必ずしも自らは情報を出さない。今回は、BPの犠牲者について正式に情報を出したのはBP自身であった。
BPによる氏名発表(3人分)は、先述したが、1月28日。日本政府の25日発表と比較し、遅れること3日である。BPによる同社の最後の犠牲者の名前は2月12日に発表されている。その一方で、1月21日ごろから英メディアは遺族の協力を受けながら、氏名を報道している。
「実名報道が実現したかどうか」と言う点において、日本も英国も最終的結果は一緒になった=実現した。しかし、英国では、遺族やプライバシーに配慮しながら、公表内容や時期をずらすことはなんら報道の自由とは衝突せず、むしろこうした配慮がなされることが当然と考えられていたという点で、政府による実名報道の(早急な)公表を迫り、「権力と対峙するメディア」という争点を作ったように受け取られてしまった、日本の場合と一線を画したように思う。
―匿名社会は何をもたらすか
共同通信の澤記者は、「日本のネット社会はとりわけ匿名で出来事を記述する志向が強い」と語る。「ウィキペディアの同じ項目で(英語版では実名が入っている場合でも)日本語版は匿名になっていることがあるのは特徴的だ」。
同氏の観察によれば、「日本は既に匿名記事やモザイク映像が英米に比べ極めて多く、だから『匿名で社会に参加できる』という考え方が広まった可能性がある」、「取材に応じてくれた方に名前を出すことのお願いすらせず匿名記事にする記者が増えていると聞いて驚いた」。
もし、日本で匿名化があらゆる報道に拡大した場合、行き着く先はどうなるのだろう?
澤氏は、著書「英国式事件報道 ―なぜ実名にこだわるのか」の中で、公開の場所から人の名前が消える「匿名社会」は、市民の共感、そして連帯をも妨げる」のではないかと指摘した。
民主主義社会で「主権者である私たちが主権者として行動するため欠かせない『知る』ということを提供」する存在としてジャーナリズムを捉える澤氏は、メディアと国民(=私人)とのあるべき関係をこのように説明する。
(民主主義社会の中では)「観客とステージがつながっているかのように、どんな『私人』であっても誰もが意見を言い、意見を求められる。その中にあって記者は、つらい立場の人を気遣いながらも、声の小さな人や少数派である人ほどに多くの意見を言ってくれるよう促し、励ます存在でありたい。それも衝立の向こうではなく、こっちに来て話してくれませんか、と。私たちの社会で生きる隣人、一人一人の人間としての同僚市民に心を寄せ、お互いの声を響かせあうマス・コミュニケーションとなるために」。
氏名公表をめぐる大手メディアの実名の主張と国民の間のマスコミ批判や匿名志向との「溝」を埋めるためには、この「社会で生きる隣人、一人一人の人間としての同僚市民に心を寄せ」る努力が、いま一度必要なのではないだろうか。