「フレンチ・コネクション」「エクソシスト」のウィリアム・フリードキンが死去。ハリウッドが追悼
「フレンチ・コネクション」「エクソシスト」を監督したウィリアム・フリードキンが亡くなった。87歳。妻でパラマウント・ピクチャーズの元会長のシェリー・ランシングによると、死因は心不全と肺炎とのこと。亡くなったのは、ロサンゼルスのベル・エア地区にある自宅。つい最近、最新作「The Caine Mutiny Court-Martial」を完成させたばかりだった。映画は今月30日からのヴェネツィア映画祭で上映される。
イリノイ州シカゴ生まれ。両親はウクライナからのユダヤ系移民。母は看護師、父はアマチュアのソフトボール選手で、男性服のセールスマンなどさまざまな低賃金の仕事に就いた。公立高校卒業後、地元のテレビ局に入社。社内のスタッフに郵便物を配達する一番下の仕事から始め、まもなくテレビ番組の監督を任されるように。手がけた数多くの番組の中にはドキュメンタリーもあり、「The People vs. Paul Crump」(1962)がサンフランシスコ国際映画祭で賞を取ると、ロサンゼルスに移住してドキュメンタリーのプロデューサー、デビッド・ウォルパーのもと、メジャーネットワークのためにドキュメンタリー番組の制作を始めた。
劇場用長編監督デビュー作は、ソニー・ボノとシェールが主演するコメディ「ソニーとシェールのグッド・タイムス」(1967/日本未公開)。その後、ハロルド・ピンターの舞台劇を映画化した「誕生パーティ」(1969/日本未公開)、「真夜中のパーティ」(1970)を経て、「フレンチ・コネクション」(1971)を監督。ドキュメンタリー出身ならではのリアリティがあるこの刑事ドラマは興行面でも批評面でも大成功を収め、8部門でオスカーにノミネート。作品賞のほか、フリードキンは監督賞、ジーン・ハックマンは主演男優賞、アーネスト・タイディマンは脚色賞を受賞した。
その2年後には、原作小説の作家ウィリアム・ピーター・ブラッティが自ら脚色を手がけた「エクソシスト」(1973)を大ヒットさせる。製作予算1,100万ドルに対し、北米興収は、なんと2億3,300万ドル。今日の感覚でも立派な数字だが、インフレ調整をすると13億ドルに値する。リンダ・ブレアの首が回転するシーンで全世界の観客を恐怖に陥れたこのホラー映画は、映画史に残る傑作。オスカーには、作品部門を含む10部門でノミネートされた。ホラー映画がオスカーの作品部門に候補入りしたのは、これが初めてのことだ。
その後は「恐怖の報酬」(1977)、「クルージング」(1979)、「L.A.大捜査線/狼たちの街」(1985)、「ジェイド」(1995/日本未公開)、「英雄の条件」(2000)、「ハンテッド」(2003)、「BUG/バグ」(2007)、「キラー・スナイパー」(2011/日本未公開)などを監督。ほかに数多くのテレビドラマを監督した。この次には、ドン・ウィンスローの小説を映画化するスリラー映画「Frankie Machine」を監督する予定だった。
私生活では、4度結婚。最初の妻はフランス人女優ジャンヌ・モロー、2番目の妻はイギリス人女優レスリー=アン・ダウン、3番目の妻はアメリカ人ジャーナリストのケリー・ラング。最後の妻ランシングとは1991年に結婚した。70年代初めに婚約したオーストラリア人女性との間に息子がひとり、ダウンとの間に息子がひとりいる。
訃報を受けて、ソーシャルメディアにはハリウッドの大物からお悔やみのメッセージが多数寄せられている。低予算ホラー映画を次々にヒットさせ、10月北米公開予定の「エクソシスト」の続編「The Exorcist: Believer」もプロデュースするジェイソン・ブラムは、「監督がホラーにどうアプローチするか、また文化全体におけるホラー映画の受け止められ方を、誰よりも大きく変えてくれました」と敬意を捧げる。ギレルモ・デル・トロは、「世界はシネマの神のひとりを失いました。シネマは真の学者を失い、私は大切で、忠実で、真の友人を失いました」というメッセージとともに、フリードキンと一緒に撮った写真を投稿。ほかにも、フランシス・フォード・コッポラ、スティーブン・キング、「ピラニア」の監督ジョー・ダンテ、「ブラック・フォン」の監督スコット・デリクソンなどが、追悼のメッセージを送っている。
ご冥福をお祈りします。