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ゴーン被告不正出国 その背景と今後のこと

園田寿甲南大学名誉教授、弁護士
ゴーン被告 レバノンで会見(写真:ロイター/アフロ)

 ゴーン被告の不正出国については、論点が錯綜していますので、(1) 不正出国の背景はなにか、(2) 保釈中の被告人の行動をいかに監視するか、(3) 日本の裁判所に係属中の事件はどうなるのか、という3点から考えたいと思います。

■不正出国の背景はなにか

 ゴーン被告の不正出国(密出国)は、もちろん犯罪行為ですし、これを正当化することはできませんが、「逃亡」という言葉のイメージに引きずられて、彼の人格を「姑息」「卑劣」など道義的に非難する空気が流れているのはいかがなものかと思うのです。彼の行為を批判するなら、戦略的観点から批評されるべきではないでしょうか。

 ゴーン被告の「逃亡」で、まず私の頭に浮かんだのは、牢獄から容易に逃亡できたのに、あえて「毒杯」を仰いで死を選んだ古代ギリシアの哲学者、ソクラテスのことでした(もちろん、ゴーン被告を「現代のソクラテス」と呼ぶ気は毛頭ありませんが)。

 ソクラテスは、アテネの理不尽な法に従うことはないと弟子たちが逃亡を勧め、また容易に逃亡できたにもかかわらず、変節や表面的な謝罪を拒否し、毒殺刑の判決に従いました。この話が倫理的な感動を呼び、われわれがソクラテスを尊敬するのは、不当な判決であっても裁判の結果であるとして、逃亡せずにそれに従ったからではなく、いかなる場合でもブレない彼の性格がその行いににじみ出て、それがわれわれの道徳的満足を刺激するからです。逃亡しなかったことが戦略的に正しい選択であったのかどうかは、また別の問題です。

 そもそも日本の刑事司法では、以前から次のようなことが問題だと言われてきました(井垣孝之「カルロス・ゴーン氏が逃げた理由、日本の刑事司法の10個の闇。」)。

  • 捜査機関が逮捕状を請求すれば、裁判官はほぼ例外なく認める。
  • その後の勾留にはもちろん法定の条件を充足することが必要だが、勾留を許可した裁判官のその判断過程を後で国民が検証することはできない
  • 逮捕・勾留が、捜査機関が被疑者を手元に置き、長時間取り調べて自白を得るための時間として利用され、弁護人の立ち会いも許されない
  • 居住環境は決して文化的とは言いがたく、その間は家族を含め、弁護人以外との面会や手紙のやりとりなどが制限されることがある

 このような状況は「人質司法」と呼ばれ、国際的にも批判されています。

 人質司法は、被疑者にさまざまな害悪(重大な身体的・精神的苦痛)を与えて、そこから逃れたいなら罪を認めよという「毒」であり、グローバル・スタンダードから見ても犯罪処理の時代遅れな方法であることは間違いなく、国はその現実に謙虚に向き合うべきではないでしょうか。

――ここで、拷問について少し触れておきます。――

村上一博・西村安博『新版 資料で読む日本法史』(2016年、法律文化社)より
村上一博・西村安博『新版 資料で読む日本法史』(2016年、法律文化社)より

 江戸時代は、自白を得るために責問(せめどい)と呼ばれる拷問が行われました。責問には「釣責(つりぜめ)」「答打(むちうち)」「石抱(いしだき)」(「算盤責(そろばんぜめ)」)、「海老責(えびぜめ)」の4種がありました(図は、石抱)。

 明治になっても拷問制度は続きますが、拷問が正式に廃止されたのは明治12年の太政官布告です。ただし、その後も警察署内部では自白を得るための拷問は行われました(特高警察による小林多喜二の拷問死は有名)。

 現在では、日本国憲法は拷問を絶対的に禁止し(36条、38条2項)、拷問等禁止条約では、自白を得るために身体的・精神的に重い苦痛を故意に与える行為が「拷問」として禁止されています。このように、被疑者に対して重大な身体的・精神的な害悪(苦痛)を故意に与えて、罪を認めれば害悪を加えることを止めるという方法で無理やり自白を引き出すことは厳に禁止されているのです。

■保釈中の被告人の行動をいかに監視するか

 実は、「逃走罪」は刑務所から逃げた場合などが対象で、保釈中の被告人の逃走自体は、処罰される犯罪行為ではありません。刑法97条の逃走罪は、「裁判の執行により拘禁された」者が対象ですし、刑法98条の加重逃走罪では、身体拘束をするための令状(たとえば逮捕状)の執行を受けた者が対象で、ともに保釈されて一時的にせよ身体拘束が解かれた者は対象ではないからです。

 そもそも保釈制度とは、推定無罪の原則のもとでは犯人と確定されていない被告人は可能な限り一般の市民と同じに扱われなければならず、害悪性の強い身体拘束は原則として避けられるべきであるという思想に支えられています。そこで、被告人には保釈保証金(保釈金)の納付という金銭的負担を課し、条件に違反したり、呼び出しを受けて出頭しない場合に、保釈金を没取(没収)するという制裁を掲げて、被告人の公判への出頭を確保するわけです。

 ゴーン被告の場合は、当然、保釈保証金15億円は没取されることになりますが、今回の事件をきっかけに、今後保釈金の額を引き上げるべきだとか、保釈の条件を厳しくすべきだといった議論がなされるとすれば、それは本末転倒な議論です。

 保釈許可率の統計データを見ますと、平成元年は約24%でしたが、平成30年には約34%に急増しています(保釈に関する数値データ)。

 これはまさに人質司法に対する反省の現れだと言えます。保釈条件をより厳しくするなどして、この流れに逆らうことがあってはならないと思います。

 現在は、保釈条件に違反したら保釈金を没取するという事後的な規範的制裁が予定されていますが、そもそも最初から物理的に違反しづらい環境をつくることが賢いやり方です。この点、アメリカなどで実施されている衛星利用測位システム(GPS)による電子監視システムの利用などは大いに検討に値すると思います。

時事通信:法務省、保釈制度見直しへ GPS義務付けも検討 ゴーン被告逃亡受け

立岩陽一郎「ゴーン氏の国外逃亡で始めるべきは、保釈を制度化するための議論だ

■これから事件はどうなるのか

 捜査権は国家主権の重要な一部分ですから、外国の領域内にいる被疑者を、その国の承認なしに拘束することはできません。そこで、その者を処罰するためには、国際司法共助(司法に関する国家間の相互協力)のひとつとして、その者の身柄の引渡しを求める必要が生じます。これが犯罪人引渡しと呼ばれる制度です。

 ただし、日本とレバノンとの間には現在、犯罪人引渡条約は結ばれていないため、個別の外交折衝により交渉が行われることになりますが、どこの国も自国民不引渡しが原則であり、ゴーン被告が日本に戻されることについては絶望的です。

 ただ、その場合はレバノンに対して代理で彼を処罰する「代理処罰」を要請することはできますが、犯罪の要件が違えばそれも難しく、かりに裁判が開かれ「無罪」にでもなると、国際的な一事不再理(ある刑事事件について確定判決があれば、同じ事件について重ねて裁判されることはないという原則)が働き、日本での処罰が法的に難しくなるのではないかといった問題が生じる可能性があります。

 また、被告人が海外逃亡中の場合は、時効も進行することはありませんので、日本で係属中の裁判は中ぶらりんの状態で続いていくことになります。(了)

〔追記〕

 本稿は、共同通信「視標」欄(2020年1月9日)に寄稿した原稿に加筆したものです。

甲南大学名誉教授、弁護士

1952年生まれ。甲南大学名誉教授、弁護士、元甲南大学法科大学院教授、元関西大学法学部教授。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、薬物規制などを研究。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)、『エロスと「わいせつ」のあいだ』(2016年朝日新書、共著)など。Yahoo!ニュース個人「10周年オーサースピリット賞」受賞。趣味は、囲碁とジャズ。(note → https://note.com/sonodahisashi) 【座右の銘】法学は、物言わぬテミス(正義の女神)に言葉を与ふる作業なり。

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