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樋口尚文の千夜千本 第82夜「沈黙 サイレンス」(マーティン・スコセッシ監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

深い沈黙とともに世界の苦悶を凝視する

二人の司祭、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は、極東の島国で敬愛する師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が棄教したという報せを信じられず、ひそかに未知なる国の陸にのりこむ。恐るべき緊迫感のなか、彼らは隠れ切支丹の村人たちに匿われるが、たちどころに捕らわれる。「沈黙」の物語は極めて単線的で、以後ほとんど全篇にわたって、自らが頑なに信仰を守るほどに信徒の農民たちが拷問で殺されてゆく、その理不尽で陰惨きわまりない政治的弾圧に司祭たちがどこまで屈さないでいられるか、という一点に絞られる。

『沈黙』は1971年に篠田正浩監督で映画化されており、遠藤周作自身によるシナリオといつもの技巧を排したストレートな篠田演出によって仕上げられたこの旧作も、相当に上質なものだった。物語も大枠は同じだが、めざましい違いがあるとすれば映像だろう。すなわち篠田作品は、きわめて美学的な(日本映画史上目覚ましい功績のひとつと言って差し支えないだろう)宮川一夫の撮影によって、きわめて残酷で美しいメルヒェンのように作られていた。しかし、デジタル撮影の機動性と生々しさを活かしきったスコセッシ版は、瞳を介して観る者の心が擦過傷を負いそうな痛覚を催させずにはおかない。

踏み絵を拒んだ農民たちの水磔の場面など、旧作では超ロングのピクチャレスクなショットであったが、今作では波にまみれて絶命してゆくモキチ(塚本晋也)らの壮絶な断末魔にカメラが寄り添うようである。終盤に描かれる残忍の極致ともいうべき逆さづりの刑のくだりなどは前作でも相当な迫力であったが、これらの拷問の迫真性あってこそ司祭たちの信仰をめぐる震撼も痛切さを増すわけで、ここはやはり作り手としても目を背けられないところではあろう。そういう意味では、冒頭の雲仙の”地獄”での苛酷な拷問シーンにフェレイラの心が折れるところから始まる今作では、温泉の熱湯を少しずつかけられて爛れた農民たちの肌にはじまって、スコセッシはとにかくデジタル的な酷薄さを張り出させている。とりわけスコセッシらしいなと思ったのは、ある俳優扮する農民が一見のどかに役人と会話していたかに見えて余りにも不意に斬首されて物体と化す瞬間で、篠田正浩版が残酷と美を共存させて寓話としていたのに対し、とにかくスコセッシ版は乾いていてハードボイルドな殺気に占められている。

この凄惨な試練を経ての終盤、ふたつの白熱の議論の場が到来する。まずは、ロドリゴと弾圧側の筆頭である長崎奉行・井上筑後守(イッセー尾形)の対峙。ここで元切支丹であった井上はキリスト教を熟知しているがゆえに、決してそれを邪教と否定することはなく、ただ現在の日本の国家体制維持にはひじょうに危険であるので棄教してほしいと請う。井上は井上なりに宗教者のように一定の方向で理論は完結している。そしてまた、島原の乱の直後のこの時分、むやみに切支丹を殺してもその殉教が彼らを英雄にするばかりで逆効果と踏んだ井上は、とにかく切支丹に棄教を迫るのみであり、踏み絵を受け入れればすぐ放免、さにあらずんば極限的な拷問という選択を突きつけ、駆逐ならぬ根絶を図る。しかしロドリゴは毅然と屈することがない。旧作では岡田英次が井上役でクールな味を出していたが、今作のイッセー尾形はソクーロフ『太陽』以来の凝りに凝った演技で、いかれた道化的なおかしみをひと匙盛ることでただならない怖さを増幅させていた。

そんなロドリゴを芯から困惑させるのは、続いて遂に姿を現す消息不明だった師・フェレイラとの議論だ。強烈な弾圧に屈し、すっかり虚無的な心境になっているフェレイラは、こんな国にキリスト教が根づく由もなく、自分が信仰に固執することで人びとが殺されてゆくのなら転ぶ(=転宗)もやむなし、そもそもいくら祈っても主は何もなさず、何も語ってくれないではないかと切々と述べる。井上筑後守との議論は平行線のまま突っぱねられても、敬愛する師の変節はロドリゴを深く揺さぶる。それでもロドリゴは、師に失望するのではなく、彼をして別人のように転ばせた井上の追い詰め方が「拷問よりもむごい」と怒りに震える。そんなそばから牢内にはいたぶられる民たちの悲痛なうめき声が響きわたり、ロドリゴは容赦ない選択を迫られる・・・。リーアム・ニーソンは誠実な演技ながらやや影が薄く、旧作で赤毛をつけてフェレイラに扮した丹波哲郎(!)の熱演がむしろ印象的だったかもしれない。

こうして拷問の試練と絶望的な議論の熱い積み重ねを経て、一転物語は静かなナラタージュの時間に入る。映画の調子は俄然淡々として、ちょうど原作で「すべてがもうけだるいという気持である。今日は一日も早く死がおとずれることのほうが、この苦しい緊張の連続から逃れられるただ一つの道のような感じさえする。もう生きることも、神や信仰について悩むことも物憂い。この体と心の疲れが自分に早く死を与えてくれることを彼はひそかに願った」とあるような雰囲気に転じて、大団円を迎える。

旧作では棄教したロドリゴが日本名を与えられて幽閉され、そこでかつて自分が転宗せぬせいで残虐に夫を殺され、遺された女(岩下志麻)をあてがわれ(あの馬による非道な拷問シーンも忘れ難い)、諦めのきわみで彼女をむさぼり、傷ましく堕ちてゆくところで終わった。しかし思えば、このラストシーンにおけるロドリゴのアンチヒーロー的なストップモーションは、それこそ70年代的な破滅の美学とニヒリズムを映すものかもしれない。その点は、今作ではちょっと違ったラストが用意されている。このロドリゴの描写をいったいいつの時点でどう終わらせるのかというのは、さまざまなやり方や解釈が考えられるので、どちらもありではないかと思う。ただ、今作のエンディングで観る者が行きつくのは、ここまでして信仰に思いを捧げてこでも転ばぬ人間、その一方のここまでして体制に邪魔な信仰を排除しようと異様な執念を燃やす人間、そのともに強靭で過剰な人の拘泥と譲らなさというものについてである。人はいったい何のためにここまでの事をするのか。これは宗教と戦争の関係の中核にあるものとして、今なおひじょうにアクチュアルな主題なのかもしれない。

そして人びとの凄絶な営みを外側から包みこむように、世界の静寂のなかに虫の声や雷鳴が鳴り渡る自然音をもって、物語は始まり、終わる。この極めてニュートラルな地点からのまなざしをもって、スコセッシは本作を撮りおおせている。これあたかも沈黙する神の視座であって、スコセッシは寡黙に身じろぎもせず、人物たちと痛みを分かちながら世界を静かに見つめている。スコセッシの澄明なまなざしがとらえた世界にあっては、意志強き不動のパードレたちよりも、身内を売り、踏み絵を繰り返し、そのくせ自分の卑小さに打ちひしがれているキチジローのじたばたとあえぐさまが魅力的に際立つのだが、旧作ではマコ岩松が熱演したこの肝心な役を窪塚洋介が心血注いで演じきっている。ちょうどキチジローは『最後の誘惑』のユダ(ハーヴェイ・カイテル)にも似た役柄で、スコセッシもお気に入りだったのではないかと推測する。このせっぱつまった雰囲気とは対照をなす、旧作では戸浦六宏がシニカルに演じた長崎奉行所の通辞を、浅野忠信がむしろ屈託なく朗々と演っているのもよかった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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