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「ネットの声」を世論と錯覚する愚。五輪エンブレム問題から考える”ネット世論”追認の危うさ

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
白紙撤回された佐野氏デザインの五輪エンブレム(写真:アフロ)

佐野研二郎氏がデザインした五輪エンブレムの白紙撤回が決まったことについて、既に使用された事例の損害賠償問題など、いまだにその余波がくすぶっている。

佐野氏のエンブレムデザインの是非はともかくとして、私が注目したのは9月1日に組織委による「一般国民の理解が得られない」などとした一連の撤回理由である。「一般国民」とは誰か、ということが明確にならないまま、言い換えるのなら「ネットで炎上したので、白紙撤回しました」という真意を「一般国民」に巧妙に置き換えて撤回理由を説明していた。この物言いからは、2ちゃんねるをはじめとしたネットの声が、いつのまにか一般国民に置き換えられ、それがまるで世論であるとでも錯覚しているようだ。

ネットの声は世論なのか。ネットの声は一体何を代弁しているのか。ネットの声や書き込みが世論とイコールなら、たしかに組織委の撤回理由はわからなくはない。だが私はそこに猛烈な疑問を感じる。ネット世論と現実の世論には、確実に乖離があるはずだ。この問題を今一度、検証してみよう。

・ほとんどのユーザーはROM専

ネット上の書き込み、ネット上のコメントが「ネット世論」の主要因を形成しているならば、一体、ネットを使うネットユーザーのうちのどのくらいの人々が「熱心に書き込みを行っているのか」探る必要がある。

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*インターネット白書2012を基に作成。拙著『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、P.47より引用

図は、ソーシャルメディアの投稿頻度を示したものである。特に、赤線で囲ったメディア「フェイスブック、ツイッター、掲示板」の投稿頻度の割合に注目したい。これらのメディアに「1日に5回以上投稿する」と答えた熱心なユーザー(一番左の黒色で示す)は、それぞれフェイスブック(2.1%)、ツイッター(12.9%)、掲示板(2.5%)と、圧倒的に少数である。仮にこれを「1日に1回以上」(左から三番目の範囲までの合計)と幅を広げても、例えば掲示板では全体のわずか(7.6%)と1割にも満たないのが実態だ。

これらのソーシャルメディアの内、「書き込みや投稿をしたことがない」と答えたユーザーは、掲示板では(61.9%)、動画共有サイトでは(75.7%)にのぼる。少なくとも、大多数のユーザーは、これらのメディアの中ではヘビーユーザーとは程遠く、特に今回の五輪エンブレムに代表される「炎上」の震源地となりやすい掲示板では、6割以上のユーザーが「みている(読んでいる)だけ」、つまり俗にいう「ROM専」(Read Only Member=読むだけのユーザー)であるということが分かるだろう。

これをみても分かる通り、概ね1割に満たないユーザーの「狂騒」を「一般国民」や「世論」に置き換えるのは無理があるのではないだろうか?

・ネットの声と世論の乖離

ネットの声と実際の世論が乖離している例でもっとも顕著なのは国政選挙の結果だ。2014年12月の衆院解散総選挙を受けて、投票前に実施されたBLOGOSのネット世論調査では、「比例代表での投票先」の第2位に、「次世代の党」(16.8%)が躍り出た(1位は自民党の27.5%=調査人数1,350人)。

また2014年10月21日に行われたニコニコ生放送での大規模なネット世論調査(調査人数約10万1,000人)によると、政党支持率では次世代の党が5.0%を獲得、共産党の3.0%を追い抜き、ここでも2位に踊りでた(1位は自民党の40.5%)。

ではこのネットの声は実際の世論ではどう発揮されたのかというと、言わずもがな2014年12月の衆院選挙で、ネットで第二党の地位を誇った次世代の党は、小選挙区でかろうじて2議席を獲得したが、比例代表では全国で約131万票を獲得したにとどまり、比例獲得議席は0であったことは記憶に新しい。結果、同党の獲得議席は、ネットでは全く人気がなかった社民党の2議席と同数だった。

ネット上での熱狂的な支持と、現実の世論が、如何に乖離しているかが証明された結果であるといえる。参考記事→総選挙「唯一の敗者」とは?「次世代の党」壊滅の意味とその分析(2014.12.15 YAHOOニュース)

・それでもネットの声を気にするのは何故か

このような明確な「ネットの声」と実際の世論との乖離が存在するにもかかわらず、それでも五輪エンブレム問題に代表される組織委がネットの声を一般国民や世論と読み変えてしまうのは何故だろうか。有り体に言えば、ネット構造の無理解、そしてネットでの書き込み(特にヘビーユーザー)のそれが、先鋭的で攻撃的であるが故の狼狽、ということが出来る。

こんなにもクレームが来ている、こんなにも批判のコメントがある、と報告を受ければ、所謂「炎上」を初めて目にする人間は当惑し、理性を失い、まるでそれが世論全部からNOをつきつけられているように錯覚してしまうのも無理はない。

そのような書き込みをみると、その書き込みはその後背にある大多数の世論を代弁しているものだ、と思い込んでしまう。これを私は「氷山の一角理論」と呼んでいる。つまり海面につきだした氷山は、水面下にその何倍もの体積を有している。ネット上での批判や企業などへのクレーマーの背後に、眼に見えない氷山の海面下の部分=世論が存在していると思い込むからこそ、これらのクレームや批判は世論を代弁したもの、と思い込まれてしまう。

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*拙著『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、P.43より引用

ところが実際には、そうしたネットの声は、特定のクラスタ、特定のネット階層といういわば亀の甲羅に似た「島宇宙」の中の声を代弁したものにすぎない。上記の例で言えば、例えば次世代の党の価値観に共鳴する保守的なネット上のクラスタの声がネット世論調査に強い影響を与えたが、それは世論とイコールではなかった。

或いは、現在、安保法制を巡る集会や抗議行動が盛んに繰り広げられている。特に8月30日には国会前に3万とも10万ともされる参加者が集まり、「反安倍」の声を上げた。しかし一方で、直近の世論調査では、7月に4割を割った内閣支持率は40%台に軒並み回復していることを伝えている(日経・テレビ東京=46%、産経・FNN=43%)。政党別支持率をみても、NHKの政治意識調査では、自民党の支持率は34.3%と一位を堅持しており、二位の民主党(10.9%)を大きく引き伸ばしている。国会前での「反安倍」の絶叫と世論は必ずしもイコールではない。

「狂騒」のただ中にいると、どうしてもその中心が世論であり世界の全てであると勘違いする。或いは、「狂騒」を近くで観察しても、まるでそれと同じ現象が日本中で繰り広げられているという錯覚を生む。それらは、両方共大きな間違いであると自覚しなければならない。

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*拙著『インターネットは永遠にリアル社会を超えられない』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、P.29より引用

・ネットの声にどう対処するか

2015年5月、大分県の動物園の猿に、英国王室にちなんで「シャーロット」という名前が付けられたと報じられた所、全国から抗議が殺到したという。私は騒動の直後、この動物園に電話取材したところ、動物園と大分市の担当部署に1,000件を超える電話やメールがあったという。当初広義の声が多数だったが、英国王室が問題とせず、動物園側が「命名を撤回することはしない」と宣言した所、その抗議の声は次第に賛同、激励の内容に変わっていったという。

一部の先鋭的なユーザーの声をそのまま「一般国民」や「世論」に置き換え、その声を受け入れることは、非民主的である。少数の攻撃に惑わされず「シャーロット」の命名を断行した大分県の動物園の行動は、今思えば正しかったといえる。

あらゆる組織や企業へのクレームもそうだ。ほんの数件の抗議、数人のクレームを世論と受け止め、企画やCMが頓挫したり放映中止になる事例が、近年相次いでいる。クレームの背景に世論があると錯覚しているからだが、繰り返し言うようにこのような声は特定のクラスタから発せられるもので、世論ではない。時としても黙殺することが求められる。

有名な話に「フランダースの犬」がある。原作付きのこのアニメがフジテレビ系列で放送されると、最終的にネロとパトラッシュが天に召されるという最終回を先読みした視聴者の一部から、同局へ「ネロとパトラッシュを殺すな」という抗議(嘆願)が殺到したという。当然、「フランダースの犬」の最終回は、ネロとパトラッシュが大聖堂で死ぬ物語のまま、放映された。この時に熱心なユーザーの抗議に屈し、ネロとパトラッシュの死を回避していたらアニメ「フランダースの犬」は後世に語り継がれる名作になっていただろうか?答えは言わずもがなだ。一部の熱心なユーザーの声をあまりに取り上げすぎるのは、危うい。

問題はこのような一部の熱心なユーザーの「狂騒」を既存の大手マスメディアが取り上げ、大々的に報道することにある。それにより、圧倒的大多数の「ROM専」がその報道の存在自体に影響され、「なんとなく問題なのではないか」と思い始める。一部から始まった狂騒がメディアによって「世論」の中に放り込まれ、いつの間にかそれが世論になっていく状態は、「扇動」という言葉がピッタリ来る。時代が時代なら、それは時としてプロパガンダとして喧伝され、危険な勢力の対等にもつながっただろう。熱心なユーザーの「狂騒」を伝えるメディアは、このことに自覚的に成るべきだ。

今回の五輪エンブレム問題、組織委は白紙撤回の理由を「一般国民」とか「世論」になすりつけるのではなく、「一部のネット上で指摘されている事実を再度点検した所、一理あるからと思ったから」とするべきだったのではないか。ネットの声を「一般国民」「世論」としたのが最大の間違いだ。ネットの「狂騒」が世論である、という悪しき先例は、「ネットで騒げば、特定の誰かを屈服させることが出来る」という危険な風潮の萌芽になる。

ともあれ、「佐野氏のデザインはイマイチ。最初から公募した方が良かったのでは」というこれまた真っ当なネットの声には、大きく賛同するばかりだ。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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