【富田林市】富田林市の南側、河内長野との境が峡谷です。河川争奪の歴史を持つその細谷池の秘密とは?
富田林市内にある錦織公園は、羽曳野丘陵の最南端を公園として整備しています。そのさらに南には河内長野市がありますが、その境界線になっているところは、深い峡谷のようになっています。
この谷の中にあるのが細谷池。この池は、見た目からして周辺にある他の池とは一線を画しているような気がします。その理由を探ると、なるほどとうなづけるものでした。
細谷池の全容がいちばんよくわかるのは、錦織公園の南口に向かう途中です。南口から道路を挟んだ反対側に来ると、その様子がよくわかります。
画像は錦織公園南口の反対側。この下に細谷池の峡谷があります。正面に見える山は嶽山(だけやま)で、頂上付近をよく見ると元かんぽの宿富田林(現:亀の井ホテル富田林)の建物が小さく見えるので、わかりやすいですね。その背後にそびえているのが金剛山。
驚くことに、かつてこれらの山々ができた地殻変動が関係して、現在の細谷池ができたのだそうです。
タイトルにも書きましたが、このような峡谷のような細谷池が出来たのは河川争奪(かせんそうだつ)の痕跡です。河川争奪とは元々の川の流れが、地殻変動による隆起や川の侵食力が理由で、川の流れそのものが変わる(川の流れが争奪される)現象。
今では信じがたいですが、もともと石川は、途中にある河内長野市との境界付近から西側に進路を取り、現在の細谷池のあたりを流れて天野川と合流し、狭山池方面に流れていたそうです。
石川の流れが変わる河川争奪が起きたのは、六甲変動と呼ばれた地殻変動が原因。この変動によって、六甲山や金剛山、さらに嶽山・金胎寺山ができました。
同時に羽曳野丘陵が隆起しますが、この影響で河川争奪が発生し、石川の流れが現在の方向に変わります。それが今から50万~20万年前くらいの間に起こったのだとか。
その結果、石川の流れは現在の富田林市を縦断するように流れて、大和川と合流します。かつての川の名残として残ったのが細谷池です。非常にスケールの大きな話ですね。
さて改めて現在の細谷池を地図で見てみると、池の左側(西側)に細い流れがしばらく続きますが、ある地点で途絶えています。
水の流れが途絶えている場所に行ってみました。いちばん西側のちょうど川が無くなっているあたりです。
先ほどの画像に見える金網の隙間から撮影するとこのようになっており、現在は雨水がこの樋を伝って細谷池方向に流れているようです。
また先ほどの地点から反対側を見ると画像のようになっていて、かつてはここに川の流れがあって、天野川方面に流れていたのではと考えられます。
しかし、さらに調べると河内長野市にある寺ヶ池からこの地域に残る農園に水を配給する井路(イロまたはイジ:人工水路)が張り巡らされており、その一部が細谷池に流れているのだとか。
ただ現在はほとんどが「暗渠(あんきょ)」となっていて、地下に隠れて見えません。が、地図をよく見ると、その水路らしい水色の筋がところどころに見えています。
河内長野市側から細谷池を見ました。やはり峡谷のように見えなくはないですね。
今度は細谷池から右側(東側)を見てみましょう。こちらは細谷川となって最終的に石川に流れています。
池から東方向を見ると、峡谷をまたぐように、大阪外環状線の高架橋が見えます。
高架橋の上がこちら。ちょうど河内長野市との境界線に該当します。
この高架橋のすぐ近くで降りてみました。住宅地になっています。この横に細谷池から流れ出る細谷川があります。
峡谷の上を突き抜けるように、高架橋が作られているように見えます。
下の川の部分を見ると、また違った風景になっています。
あんなに峡谷のように見えた池からの流れは、ここまで来ると、どこにでもある小さな川のようです。
この流れの奥に細谷池があるのですが、この場所からでは少しわかりにくかったです。
細谷池と細谷川とのギャップに驚くばかりですね。
途中に架かる橋の欄干を見ると、細谷川と書いてあります。このまま川の流れは石川に向かって居ますが、途中の流れ全ては追いかけられませんでした。
これは石川の反対側からの様子、わかりにくいですが地図上ではこの辺りで細谷川と石川が合流しているはずです。
というわけで細谷池と細谷川を見てきました。太古の名残が見られる貴重な場所でもある細谷池は峡谷のように近づけない雰囲気がありますが、池を離れるとほんとうに身近にある小さな川です。
細谷池と細谷川
住所:大阪府富田林市須賀
アクセス:南海滝谷駅から徒歩15分
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