「切り捨てたい絶望の日々」から「ソラシド」本坊が見出した人生の核
吉本興業の「あなたの街に住みますプロジェクト」で2018年から山形県に住んでいるお笑いコンビ「ソラシド」の本坊元児さん(45)。新型コロナ禍をきっかけに自給自足を目指して始めた農業が注目され、農作業に取り組む姿を収めた映画「脱・東京芸人」も話題になっています。地元・愛媛を出て大阪、東京で活動してきたものの「何一つ満足のない」苦難の道が続きましたが、現在テレビ・ラジオのレギュラー8本、連載3本を抱える売れっ子となりました。「絶望の日々」を噛みしめ、今考える芸人の意味とは。
2018年に“住みます芸人”として山形に移住しました。
それまで全く縁がなかった土地だったんですけど、周りの方々のやさしさで少しずつお仕事が増えていった中、大きな変化があったのが新型コロナ禍でした。
劇的に仕事がなくなってパン屋さんでアルバイトをしていたんですけど、そこで知り合いになったおじいさんから「空き家と畑があるから、良かったら使わない?」と格安の家賃でお借りすることになったんです。
お金もないし、自分が食べるものをまかなう目的で農業を始めた。それが今の自分の原点になりました。その様子をSNSで発信したり、マネージャーさんが足しげく山形に通って農作業の様子を映像に収めてくださっていたことがプラスに働いたのか、いろいろなテレビ番組でも取り上げてくださいまして。
想像もしてなかったんですけど、農業きっかけでたくさんお仕事をいただくことになりました。今、テレビ・ラジオのレギュラーが8本、連載3本をいただいています。
さらには、マネージャーが撮りためてくれていた映像を使って映画まで作ってくれまして。何がどうなるか分からない世界だとは思っていましたが、本当に、まさかの展開を噛みしめています。
自分の中でもね、簡単に整理できるものではないんですけど、これまでの全てが今という時間に集約している。それは強く思います。
地元・愛媛を出て大阪でお笑いを始めて、そこから東京に向かいました。大阪でも東京でも、自分が思っていたような活動はできなかった。
東京では毎日限界を超えるような肉体労働のアルバイトをやって、その苛烈な日々を綴った「プロレタリア芸人」という本を出したことで、そこに注目していただいたことはありました。「アメトーーク!」などいろいろなお仕事もいただきました。もちろん、全てありがたいことですし、その場をくださった方々には感謝しかないんですけど、自分の中で忸怩たる思いがあるのも事実でした。
「露出狂的に裸で走り回っているから、みんながこっちを見ているだけ」
これはあくまでも芸人が芸で売れているのではない。目を引く変わったことをしているから皆さんがこっちを向いているだけ。感謝しつつもさめた自分もいたんです。
自分の中での芸人像は「劇場でしっかりと漫才をやって、多くの番組で面白い話をする」というものだったので、本芸でもない肉体労働バイトの話をしてテレビに出る。それ自体を良しとしていないところがあったんです。
だから、山形に向かう時も、東京での肉体労働経験を生かせる大工さんみたいなお仕事のオファーもあったんですけど、それは絶対にやらないでおこうと思っていました。山形でもまた“それ”を使って仕事をしたら、東京でやっていたことと同じになる。
東京に出る時には大阪でやっていたことをリセットして向かいましたし、山形に来る時も東京での時間をリセットしたつもりでした。
ただ、農業をやる中で、あらゆる感覚が変わっていったんです。マネージャーさんが仕事の枠を超えて頻繁に来てくださったので、農作業をしていても単なる作業ではなく、その先に“見てくださっているお客さん”を感じることができる。まず目の前にマネージャーさんというお客さんがいるし、とにかく見てくれている人を笑わせる。芸人として一番大切な部分を農業という場に見出すことができたんです。
トウモロコシを収穫する時でも、自分ひとりだったら黙々と作業をするだけ。だけど、カメラがあるので、身の詰まったトウモロコシを見ながら「これだけ奥歯あったら、歯ぎしりうるさいやろなぁ」とか、何かボケたりするようになったんです。
そう考えると「笑いはどこからでも出てくるもの」という思いが自分の中で確立されたんです。なんばグランド花月で漫才をしないと生まれないものではないし、こちらの気の持ちようで、いくらでも抽出できるものなんだと心底思えたんです。僕の場合は、わざわざ来てくださるマネージャーさんを笑わせる。それを目指すことによって、農業が笑いのタネを掘り起こす場になったというか。
それこそ、宮川大輔さんは全国の畑や漁港を番組でまわって、これでもかと面白いことを作ってらっしゃる。これまで東京で肉体労働の話をしている時も、よく考えたらいろいろな先輩方から「面白いなぁ」と言ってもらっていた。皆さんが「面白いなぁ」と笑ってくださっていたことの本当の意味をつかみ取れた気がしたんです。どこで何をしようが、そこから何を得て、何を発信するのか。それは自分次第だなと。
そうやって自分の感覚が変わると、また新たに見えてくるものもあることに気づきました。
場所を変えるたびにリセットしてきたつもりだったんですけど、大阪時代に縁があった「メッセンジャー」黒田さんが大阪のラジオで僕の作ったにんにくの話をしてくださっている。
東京時代に一緒に肉体労働のロケに行った同期の「麒麟」川島君が言ってくれていた「もう肉体的には限界やけど、カメラがあったら何とか体が動くわ」という言葉も今の大きなヒントになっている。
そういった積み重ねがあって今の自分がある。言葉にするとシンプルですけど、なかなか気づけないことに今気づかせてもらっていると感じています。
こちらに何も言わずに、いきなり現れて「クマが出た!」とびっくりさせるくらい頻繁に来てくれたマネージャーさんにも感謝ですし、本当に今の自分があることがいかに皆さんのおかげかを感じています。
今でも、理想としては劇場で漫才をやって大きな笑いを取る。それが一番やりたい芸人のカタチではあります。
でも、以前と違うのは、それだけが正解なわけではない。それができる人は素晴らしい。でも、それができなくても、できることはある。そう思っています。
これまでの芸人人生で一番たくさんお仕事をいただけています。いろいろと出していただいていた東京時代に比べても、収入は6倍くらいになっていると思います。
恩返しなんておこがましいですけど、自分ができることにとにかくまい進する。そして、山形で面白い番組の司会ができるように何とか頑張って、お世話になった皆さんをお仕事として招けるようになりたい。それを目指しています。
大阪で、東京で、絶望したこと全てに意味があった。新型コロナ禍で仕事がなくなったことにも意味があった。きれいごとなんて言う気もないですし、そんな人間でもないんですけど、本当にそうだったので、今は心底そう思っています。
(撮影・中西正男)
■本坊元児(ほんぼう・がんじ)
1978年8月7日生まれ。愛媛県松山市出身。吉本興業所属。NSC大阪校20期生。2001年に水口靖一郎とお笑いコンビ「ソラシド」を結成。同期は「麒麟」ら。大阪・baseよしもとを拠点に活動し、10年に東京に拠点を移す。過酷な肉体労働の日々を綴り「どうせ、明日も、今日なんだろう?」などリアルな思いを綴った初著「プロレタリア芸人」を15年に上梓。18年から“住みます芸人”として山形県に移住し、自給自足の農業生活がテレビ番組などでたびたび特集される。農業に向き合う姿を記録した映画「脱・東京芸人」(安達澄子監督)が公開中。