「宗教行為とはいえ犯罪」の線引きは… 霊感商法、罪に問えたケースを解説
■祈りと法
身の周りで理不尽な出来事が生じたときや、真摯な努力が少しも報われず逆運に嘆くときなどに、人は「なぜ」という根源的な問いを発し、その答えを求めて苦悶します。
たとえば、愛する人が理不尽な死を遂げたとき、その死の意味を求めて人は苦しみます。医師から、死因は窒息ですとか、心臓麻痺ですといった説明をいくら受けても、その苦しみが消えることはありません。「なぜ、死んだのか」という根源的な問いに対する答えは、自然科学の次元には見つからないのです。
このようなとき、人は〈祈り〉に向かいます。自らの日常的な現実を超え、超自然的な、人知を超えた大きなものに自己を委ねようとするのです。そのときに修行を積んだ祈祷師や霊媒師、僧侶などに共に祈ってもらい、心の平穏が得られることはよくあることで、それに謝礼を贈り、また受け取ることにも問題はありません。
しかし、その方法が社会的に許容される限度を超えたときには法の問題が生じます。
とはいうものの、そこには歴史的な経緯があって、単純に詐欺が問題になるかといえばそうではありません。
明治の頃も宗教の看板を掲げた怪しげな祈祷やまじないを行い、対価を払わせるということがありました。しかし、そのことがただちに〈だまし取る〉という意味での詐欺罪になるかといえば、そうではなく、基本的には警察犯処罰令が適用されました。これは、庶民の平穏な日常生活を害する比較的軽微な犯罪行為を処罰する規定ですが、その第2条17号には、「妄(みだり)二吉凶禍福(きっきょうかふく)ヲ説キ又ハ祈禱(きとう)、符呪(ふじゅ)等ヲ為シ若ハ守札類ヲ授与シテ人ヲ惑ハシタル者」(意訳:道理に反して幸不幸や災いを説き、祈祷やまじないを行ったりお札を配って人をまどわすこと)を処罰する規定があり、主にこれが適用されました。
えせ宗教に対して詐欺ではなく警察犯処罰令が適用された理由は、おそらく次のようなことではなかったでしょうか。
- 自ら信仰心がなく、宗教的意味における祈祷をする意思も能力もない者が、人を惑わし人の弱みにつけ込んで金銭を受け取るような場合は詐欺罪が成立する可能性はある。
- しかし、そもそも宗教的行為は科学的な観点からその真偽が決められるものではなく、そこには多少とも誇張や詐術的な要素もあるので「だまし、だまされた」という関係でとらえられるものではない。
- 怪しい祈祷行為やえせ医療行為を取り締まるのは、庶民の生活秩序の問題であり、警察犯処罰令の任務だ。
しかし、戦後になって信教の自由が憲法で保障され、軍国主義の精神的支柱であった神社神道から国教としての性格が剥奪されて、警察犯処罰令も廃止されました。そのことによって、宗教的行為の妥当性がダイレクトに刑法的な問題になりました。
まず、宗教的行為だからといってすべてが刑法的にも許されるものでないことは当然です。「加持祈祷傷害致死事件」と呼ばれる事件があります。これは悪霊を追い払うとして、祈祷を受けていた人の身体中を叩いているうちに、その人が亡くなってしまったという事件です。被告人は、加持祈祷は宗教行為だから、その結果人が死んでも処罰されないと主張しましたが、当然のことながら、裁判所は「信教の自由も絶対的無制限のものではない」として有罪としました(最高裁昭和38年5月15日判決)。
前世紀末に起こったオウム真理教の事件を見てもそうで、オウムの信者は人の生命を奪うことはその人の魂を救済することだという理由で殺人を重ねましたが、これが宗教だとして許されるものではないことは当たり前のことです。
しかし、殺人や傷害などの場合は、その不当性、違法性が明らかですが、詐欺などの財産犯の場合は微妙になってきます。
それは、祈祷、祓(はら)い、供養、みくじ、占いなどに謝礼を行い心の平穏を得ることは、わが国はもちろんのこと、どこの国でも古来行われてきた庶民の信仰だからです。人の不幸や不遇を先祖供養や霊などの問題に帰属して、単純に祈祷や除霊を勧めたり、開運グッズなどの購入を勧めることも基本的に自由なのです。
また、一般の商取引においても、多少の誇張やかけひきが行われることがあるように、布教の場面においても誇張や詐術的要素のあることは否定できません。まして、信仰の場面は、科学的な議論、証明を超越した次元の話になりますので、騙されたとか、理性的な判断が妨げられたかどうかの評価が困難になる場合が多いことも事実です。
しかし、このように宗教的行為の社会的妥当性を議論するには微妙で難しい問題があるとはいっても、裁判所は不当な宗教行為に対して刑法的判断を下して処罰している例があるのも事実です。その数は多いとはいえませんが、以下では、その数少ない裁判例から何が言えるのかを見ていきたいと思います。
■霊感商法の罪
改めて霊感商法とは
霊界や先祖の因縁、祟りなどの話で人をことさら恐怖や不安に陥れ、そこにつけ込んで法外な金額で壺や印鑑などを買わせる商法が「霊感商法」で、一般には数ある悪徳商法の一つに位置づけられています。具体的な物(商品)の販売ではなく、祈祷料や供養料などの名目で多額の金銭を要求する場合もあります。
霊や先祖の因縁など、何を信じるか、あるいは信じないか、また自分が信じることを人に勧めるかどうかは信教の自由です。しかし、霊感商法の場合は、供養を怠ると取り返しのつかない不幸になるとか、財産を放棄すれば苦悩から抜け出せて魂が救済されるといったようなことをたくみに語りかけてきます。ときには密閉された部屋に長時間軟禁し、理性を鈍らせて合理的な判断ができない状態にして高額な開運グッズの購入や、教団への多額の献金を約束させるなどのことが行れます。
偽祈祷師事件(最高裁昭和31年11月20日決定)
宗教と刑法の関係について初めて判断した最高裁判例は、祈祷師が、自己の行う祈祷が病気治療にまったく効果がないと思っていたにもかかわらず、いかにもその効能があるようにあざむいて依頼者から金銭を受け取ったという事案で詐欺罪を認めたものです。
信教の自由に祈祷の自由も含まれるならば、祈祷師が科学的見地から祈祷に治療の効果がないと信じていても、そもそも祈祷という行為じたい超自然的な領域の問題だから依頼者のために祈るという意思があるのであれば、「だます」という行為に当たらないのではないかと思えます。その点でこの判例には疑問が残ります。ただ、効能をあまりにも誇大に、かつ怖がらせるような程度に到れば、詐欺罪や場合によっては恐喝罪の成立が認められると思いますが、本決定はこの点について具体的に述べていません。
霊能力師事件(富山地裁平成10年6月19日判決)
これは、寺院の僧侶が、加持祈祷の供養を行えば病気が治ると称して依頼者から100万円をだまし取った事案です。どのような場合に宗教を看板にして被害者から金銭をだまし取ったといえるのかが問題になり、被告人は、自分には霊能力があるから無罪だと主張しました。
裁判所は、被告人の霊能力について、この宗教法人における僧侶の修行研修や供養料を支払わせるシステムの実情などを検討して、被告人には特別な霊能力があったとは認められないとし、不安にさせた依頼者を錯誤に陥れて高額の供養料を支払わせたと認定しました。
本件では、被告人に霊的能力や宗教的確信があったかどうかが問題になりましたが、このような主観的内面的事実の認定はなかなか難しく、容易ではありません。その点、裁判所は、祈祷が宗教的組織の名の下に行われる場合、その宗教集団の(1)研修や面談の仕組み、(2)祈祷や供養の手法および実態について、当該集団の内部資料や証言などに基づいて明らかにし、これらの情況証拠を総合して霊的能力や犯意の有無を認定しており、妥当だと思います。
このような発想は、次の「法の華三法行」事件にも活かされています。
法の華三法行事件(最高裁平成20年8月27日決定)
この事件は、宗教法人「法の華三法行」の代表役員であった被告人が、「足裏鑑定」と称する面談を行い、ホクロがあればガンだといい、被害者らに「天声」に従って金銭を納めれば病気が治ると告げ、信頼した被害者らから1億数千万円余りの金銭を交付させたというものです。
裁判所は、次のような事実を認定し、詐欺罪の成立を肯定しました。
- 医師でもない者が病気を診断したことが欺罔行為に当たり、それが科学的な診断であるかのように被害者を錯誤させた。
- 勧誘がマニュアル化されており、「このままでは癌になる」などと脅かすよう指示されていた。
- 足裏診断から修行勧誘を通じて、最後には「天声フォロー」と称する高額の法納料を支払わせるための勧誘システムが確立していた。
- 勧誘に成功した者には報奨金が与えられるシステムであった。
その他の裁判例
霊感商法について刑法的観点から断罪したケースは必ずしも多くはありませんが、次のような裁判例があります。
1. 大阪地方裁判所平成28年8月23日
浄化のためと称して開運ブレスレットの販売が問題になった事案。相当高度の組織性、計画性、常習性を有する大規模な霊感商法だとされました。
2. 大阪地方裁判所平成28年10月6日
宗教に名を借りた大規模霊感商法の事案で、相当高度の組織性、計画性、常習性があるとされました。
3. 盛岡地方裁判所平成30年12月19日
加持祈祷や水子供養の意思もないのに金銭の交付を受けた詐欺事案で、被害者の不安につけ込む卑劣な手口による霊感商法であり、継続性のある職業的、常習的犯行だとされました。
4. 仙台高等裁判所令和2年8月4日
水子供養のための加持祈等・石仏建立等の名目で多額の金銭をだまし取った霊感商法詐欺事件、組織性が認められました。
5. 盛岡地方裁判所令和2年12月23日
加持祈祷、水子供養などの意思もないのに、被害者らをだまして現金を出させた霊感商法詐欺事案。組織的、職業的、常習的犯行で、手口が巧妙、模倣性の高い犯行だとされました。
■信者は祈りの中で自滅させられる
これらの裁判例では、いずれも組織性、計画性、常習性の強さなどから組織的な詐欺罪としての犯罪性が認定されているのが特徴です。脅迫的要素が強くなってくると、場合によっては恐喝罪の成立も考えられますが、霊感商法では基本的に詐欺罪が問題になるものと思われます。
なぜなら、霊感商法に特徴的なのは、被害者の信仰心を巧妙に焚きつけ、被害者に自らが祈りを通じて心の平穏が得られたと思わせることが重要だからです。被害者に財産を吐き出させることによって被害者が心の平穏を得たように仕向け、そして被害者がさらなる心の平穏を求めて財産を自ら吐き出し続けるという負のスパイラルが形成されます。そこには、被害者自らが毒を求め続けて自滅するまで吸い上げるという点で、まさに薬物依存やギャンブル依存などと同じ問題構造があるのではないかと思います。
なお、これらの裁判例では、団体の教義そのものの真偽についての刑法的判断が控えられる傾向がありますが、裁判所が教義そのものを判断すると、特定の宗教団体に対する公権力の介入にもつながり、信教の自由との観点からみても問題なので、裁判所の態度は妥当だと思われます。(了)
【主要参考文献】
- 197207 西村克彦「宗教法人または宗教類似行為による犯罪 祈祷の効果を信じない祈祷師と祈祷料の授受」(宗教判例百選)
- 198901 古川・梶木「悪徳商法と消費者保護立法の動向」判タ680号
- 199101 大島一泰「宗教的感情 祈祷名目による詐欺・恐喝」(宗教判例百選・第二版)
- 199311 山口広「霊感商法と被害者救済」ジュリスト1034号
- 200012 木村光江「宗教活動と詐欺罪」研修625号
- 201005 木村光江「『法の華三法行』事件(刑事責任)」消費者法判例百選
- 201101 三上正隆「宗教活動と詐欺罪の構成要件該当性」宗教法制研究所紀要第51号
- 201101 宮下修一「宗教と消費者保護―霊感商法を中心に」宗教法制研究所紀要第51号
【余滴】
国家神道と信教の自由
はなしは明治維新の頃にまで遡る。
「王政復古」の大号令で始まった明治維新は、武士による政治を否定し、国家を千年以上も前の天皇中心の古代律令体制に戻すことが目的だった。そして、その精神的な支柱となったのが神社神道の国教化(国家神道)である。
国家神道とは、皇室の祖先神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮を全国の神社の頂点とし、すべての神社を国家が管理するという制度だ。
帝国憲法第28条で信教の自由が認められていたとはいえ、それはあくまでも「安寧(あんねい)秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限」(意訳:社会の平穏を害さず、天皇の民としての義務に違反しない限)りにおいてのことであり、国教である神社神道と両立する限度で認められていた。仏教やキリスト教など、それ以外の宗教的活動は禁圧の対象となっていた。神社に与えられたこのような特権的地位と、国教としてのその教義は、のちの軍国主義の精神的支柱にもなった。
ところで、戦前には警察犯処罰令という、庶民の生活秩序の維持を目的として比較的軽微な犯罪行為を取り締まるための規定があった。
その第2条17号には、「妄(みだり)二吉凶禍福(きっきょうかふく)ヲ説キ又ハ祈禱(きとう)、符呪(ふじゅ)等ヲ為シ若ハ守札類ヲ授与シテ人ヲ惑ハシタル者」(意訳:道理に反して幸不幸や災いを説き、祈祷やまじないを行ったりお札を配って人をまどわすこと)を処罰することとし、また第18号は、「病者二対シ禁厭(きんえん)、祈禱、符呪等ヲ為シ又ハ神符(しんぷ)、神水等ヲ与へ医療ヲ妨ケタル者」(意訳:病人に呪術や祈祷、まじないを行ったり、お札や霊験ありと称する水を配って医療を受けることを妨げること)を処罰していた。
しかし、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法で基本的人権としての信教の自由(第20条)が保障され、神社神道は国教的性格を剥奪された。何を信じ、何を信じないか、また人に自らの信じることを勧めることは自由になった。礼拝・祈禱・宗教上の儀式などの宗教行為を行うかどうか、またそれに参加するかどうかも自由である。その結果、警察犯処罰令も廃止され、第2条17号、18号の規定は軽犯罪法などに受け継がれることなく失効したのであった。
人の不幸や不遇を先祖供養や霊などの問題に帰属して、単純に祈祷や除霊を勧めたり、開運グッズなどの購入を勧めることも、基本的に自由だとされたのである。(了)