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【歴史人物】異名がシビれるほどカッコいい人物・5選!その名に秘められた常人の領域を超えた生き様とは?

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

じっさいの歴史、あるいはそれらを物語る作品内であっても、カッコ良い異名の人物を耳にすると、それだけでワクワクさせられてしまうことがあります。

たとえば有名なところでは、日本の戦国時代。上杉謙信の“越後の龍”や、斎藤道三の“美濃のマムシ”なども、いかにも一筋縄ではいかない強者ぶりが、にじみ出ています。

今回はそんな中でも日本だけと言わず・・世界史も含めて2つ名がカッコ良く、かつ、その生き様が名に表れている人物を、5人ご紹介したいと思います。

いずれも、フィクション作品さえ驚かせそうな見事さであり、きっとあなたの琴線に触れるものが、あるのではないかと思います。

シビれる異名①:“雷光の”ハンニバル

ハンニバル・・と聞いて、少し以前に話題となった映画の“ハンニバル”を思い浮かべる方も、少なく無いと思います。

作中では猟奇を象徴する、恐怖の存在として描かれましたが、かつて古代ローマを歴史上、ほんとうに震えあがらせたのが、このハンニバル将軍という人物です。

彼は紀元前、ローマと地中海を挟んで覇権を争った、アフリカ北部を本拠とする“カルタゴ王国”の将軍でした。

常人の領域をはるかに超えた軍才の持ち主で、ローマ軍は彼の前に連戦連敗。父から授かったとされる添え名“バルカ(雷光)”をつけた、“雷光のハンニバル”の名は世界中に轟きました。

逆に敵の立場からすれば、このままではローマの都に攻め入られ、滅ぼされるという恐怖の象徴となったのです。

※イメージ
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その見事すぎる軍略は後世“戦争芸術”とも称され、合戦のお手本として様々な軍人が学んだほどでした。

そんな彼を前にローマはもはや、プライドにしがみついてはいられません。最終手段として“ハンニバルとは戦わない作戦”を実行。

本拠をガチガチに守った上で、ハンニバル軍と遭遇しそうになったら逃げ、ほかのカルタゴ軍や、留守になったカルタゴの本拠を襲って、揺さぶる計略に出ました。

そのようにして最終的には何とかローマが勝利したのですが、一歩まちがえれば世界の文化と歴史が激変する瀬戸際でした。

まさに雷光のごとき衝撃は、ローマ文化を受け継ぐ欧米には恐怖の象徴、逆にカルタゴ王国が存在した北アフリカでは稀代の英雄として、光と影の両方で伝説となっている人物と言えるでしょう。

シビれる異名②:“第六天魔王”信長

2つ名の中でもとくに有名な1つが、この織田信長の異名でしょう。

戦国時代、一部の仏教勢力はそこら辺の戦国大名をも凌ぐ財力と軍事力を保持しており、信長は大いに警戒しました。

おなじ寺社でも、信長が懇意にしていた宗派も多数あったのですが、対立する相手は容赦なく滅ぼすべく攻撃。

逆に相手からすれば、信長は己の野心のため仏に仇なす天敵。仏教で考えられていた世界観のうち、欲を象徴する世界の最高位が“第六天”であり、その主たる“魔王”こそが信長であると、この名を当てはめたと伝わります。

キリスト教の神話にたとえれば、さながら地獄の王“堕天使ルシファー”扱いと言ったところでしょうか。

さて、そんな信長の行為を諫めるべく、武田信玄が一通の手紙を送ったと言いますが、彼は仏道に帰依していたこともあり、手紙には“天台宗の代表たる信玄”という署名がありました。

それを見た信長は、さながらブラックジョークのような皮肉を込め「第六天魔王・信長」という署名で返したエピソードが、この名をさらに際立たせました。

当時の価値観を突きやぶる破天荒さや、尋常ではないカリスマの象徴として、今なお多くで語り継がれる2つ名となりました。

しかし信長の戦歴をみると、生涯を通じてもっとも苦戦させられた相手は、寺社勢力といっても過言ではなく、この異名もまんざら、比喩ばかりではないと感じさせられるものがあります。

シビれる異名③:画狂老人卍(がきょうろうじん・まんじ)

今や日本を超え世界に名を馳せる、葛飾北斎。彼は生涯を通じ、30回にもわたってペンネームを変えたといいますが、70才半ばという高齢になって、最後につけた画号がこの「画狂老人卍(がきょうろうじん・まんじ)」でした。

この令和の時代に見ても遜色のない、突きぬけたネーミングセンスで、しかも他人が勝手に呼び始めたのではなく、本人が好んで名乗っていたと言います。

なお北斎は仏教を熱心に信仰していたといい、川柳の世界で「卍(まんじ)」というペンネームを使っていました。

仲間たちから「卍さん」というニックネームで親しまれ、それを“画狂老人”に合体させたものと伝わります。

ふつう“狂”といえば、いわゆるクレイジーを表す一字として、ネガティブに捉える人も少なくないでしょう。

しかし北斎は70才を超え「今までの自分はむしろ何も見えておらず、この歳でやっと本当の世界が見えてきたぞ!」といった事を言い残しています。

なにもかも、ある意味で狂ったように“生涯を絵に賭ける!”。そんな生き様を宣言した、ロック魂あふれるカッコよさも、漂います。

なお現代の日本は超高齢化社会となり、中には「もう自分は〇〇才だから」と、気力が減退する方も少なくありません。しかし、今よりずっと平均寿命の短い江戸時代に、この宣言。

“画狂老人卍”の視点に掛かれば、歳を気にすることさえ笑い飛ばされてしまいそうです。「いやいや何をおっしゃる。皆様方、人生ここからですぞ!」。そんなエールを送られているような名前に、思えてしまいます。

シビれる異名④:“光の魔術師”レンブラント

前述の北斎に続いて、こちらも芸術家になりますが、オランダ美術の黄金期に活躍したレンブラント。光と影を自在に使いこなす技法において、比類なき者といった意味合いで“光の魔術師”、または“光の画家”などの2つ名で呼ばれています。

何とも輝かしい、ドキドキしてしまうよう呼び名ですが、彼の人生自体は平たんではないどころか、とてつもない浮き沈みに満ちていました。

20代で裕福な暮らしと家庭を手に入れるも、のちに子に先立たれてしまい、50代の時には経済的に破綻するなど、心底からの奈落や悲しみも味わう人生だったのです。

“光”とは言っても、キラキラしたお花畑のそれではなく、深い闇を抱いたからこその、際立つ光と言えるのかも知れません。

死ぬまで自画像を描き続けるなど、人間の心や、自分とは何か?について、その深い内面を追求し続けたともいえる人物です。

シビれる異名⑤:“魔臣”ゲルラッハ

ときは日本で言う幕末の頃、今のドイツは“プロイセン”という王国が中心となっていましたが、全土を支配していたわけではありませんでした。

それどころか群雄割拠とも言える状態で、様々な民族勢力が混在するうえ、事あるごとにナポレオン率いるフランス軍など、周辺の強国には翻弄されて右往左往。

それを「何とかせねば!」と立ち上がった1人が、ゲルラッハという人物です。

彼はもともと身分はそれほど高くない、1軍人に過ぎませんでした。しかし数々の戦場で武功をあげて昇進。ついには参謀本部入りするなど、生粋のたたき上げといえる実力者でした。

そうした戦いの日々の中、心を振るわせるほどの鬼才をもつ“ビスマルク”という人物と出会います。ゲルラッハは思いました。「彼こそ、我らを栄光に導く存在だ!」。

※後のドイツ
※後のドイツ

以後、ゲルラッハはビスマルクの師として、政治や軍略を叩き込む一方、自らは一歩引いて裏から支える役に徹しました。

その見込み通り、やがて国王に次ぐナンバー2とも言える、“宰相(首相)”の地位にまで昇りつめたビスマルク。

富国強兵に徹し、とうじ強力だったデンマークやオーストリアを撃破した他、フランスとの戦いにも勝利してナポレオン3世を捕らえるなど、けた違いの戦果を挙げたのでした。

ドイツ全土の統一を果たし、今にも繋がる基礎を築いたビスマルクの剛腕は“鉄血宰相”と呼ばれ、それを下支えしたゲルラッハは“魔臣”という異名がつきました。

何やらゾクッとしてしまう異名ですが、“魔”とはいっても、邪悪な意味合いではなく、祖国への忠誠心や献身ぶりが、尋常ではないといったニュアンスの2つ名と言えるでしょう。

国王が死去した際は老齢にも関わらず1人、中世の騎士の鎧に身を包んで棺の横へ立ち続け、周囲にゲルマン騎士の誇りを想起させたエピソードも伝わっています。

生き様を体現する2つ名

以上、世界史も含めた歴史人物のなかでも、とくに目を惹く2つ名で呼ばれる、5人を紹介しました。

いずれも、ただカッコ良く見せるためや、何となくのノリでつけられた“あだ名”と違い、本人の深い生き様に根ざしているからこその、重みや説得力を感じます。

歴史に触れるとき、いつどのような出来事があったかを追うだけでなく、人の生き様や、今回の様に“名前”に絞って着目するのも、面白い1つ。

今ご覧のあなたも、ぜひ色々な視点で歴史に親しんで頂けましたら幸いです。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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