3・11に、デビュー15年目で重賞初制覇を飾った被災地出身の騎手の物語
競馬とは無縁の家庭から海外遠征へ
「あの日である事は勿論、分かっていました」
騎手・小野寺祐太はレース前の心境をそう述懐した。1990年3月12日、宮城県生まれの現在33歳。競馬とは無縁の家庭で育ったが、中学時代、すぐ後ろの席の同級生が競馬好きで、影響を受けた。
「テイエムオペラオーらが活躍していた時で、ゲームや雑誌でますますハマり、騎手になりたいと考えました」
相談すると父は反対しなかったが、母は無言になり、祖父母には「高校は行った方が良いのでは?」と言われた。
「でも、騎手になりたい一心で競馬学校を受けました」
結果は不合格だったが、高校には通わず「馬の専門学校のようなところで一年間、馬に乗って、学んだ」(小野寺)結果、二度目の受験で難関を突破した。
「2009年には伊藤正徳調教師の下から騎手デビュー出来ました。正徳先生は厳しかったけど、凄く可愛がってくれました。競馬でも調教でも愛を持って叱ってくれているのが分かりました」
デビュー2年目の10年には厩舎のネヴァブションが香港遠征。小野寺は師匠から指名を受け、現地での調教をつけた。
「調教師になる前の青木(孝文)先生が担当していて、互いに『良い経験をさせてもらい、勉強になる』と言い合いました」
当時、レースで騎乗したのが後藤浩輝だった。
「後藤さんは僕がデビューする時に腹帯とか鞍とか、必要な馬具を買い揃えてくれました。また、競馬のアドバイスは勿論、伊藤厩舎の馬が走るようにするため、僕やスタッフを誘って食事会をよく開いてくれ、沢山話し合いました」
東日本大震災に実家が被災
その翌年、あの忌まわしい天災が起きた。東日本大震災。宮城の実家も直撃を受けた。
「僕は小倉に滞在していたのですが、テレビを点けたら震災のニュースでもちきりでした」
慌てて実家に電話をしたが、全く繋がらなかった。
「何日か繋がらなかったので最悪の事態が頭をよぎりました。でも、結果的に家族は全員無事でした。実家は震度7で、立っていられないくらい揺れたそうです」
家族こそ難を逃れたものの多くの犠牲者が出た事に心を痛めたその11年、競馬でも苦戦する日々が始まった。勝てない日が続くと騎乗依頼が減り、尚更勝てなくなった。悪循環の波に呑み込まれ、3年以上、勝ち星から見放された。
「騎乗機会を求めて障害にも乗り出したけど、それでも勝てませんでした。土日連続で落ちる等、落馬も多く、さすがにこの時は苦しかったです」
しかし、そんな時、救世主が現れた。
「ミルファームの清水敏社長が、障害だけでなく平地も乗せてくださいました。全く成績を出せていない自分に一杯、頼んでくれて、今でも感謝しています」
助けてくれる人は他にもいた。調教師の木村哲也だ。
「どうしたら乗れるようになるか、木村先生を筆頭に厩舎のスタッフ皆で応援してくれました」
14年からは木村厩舎所属となった。15年には自身障害騎乗125戦目で初めて障害戦で勝利するのだが、この時、乗っていたのがトーセンハナミズキ。オーナーの島川隆哉氏は、木村が紹介してくれた人だった。
「木村先生の下で4年間、お世話になりました。騎手人生の中で大きなターニングポイントになりました」
栗東に移籍
それでも模索する日々はまだ続いた。そして、昨年、また一つ、大きな決断をした。
「三十歳を過ぎ、年齢的に騎手としてキャリアの半分は過ぎているか?と考えた時、このままで良いのか?と思いました。まだ体力はあるし、気持ちも途切れていないうちにやれる事はやろうと思い、栗東への移籍を決めました。関東にいた時から乗せていただいていた荒川(義之)調教師しか頼りはなかったので、成功するかは分からないけど、まずやってみる事にしたんです」
すると、そんな姿勢を見てくれる人がいた。
「トワイライトタイムやテイエムチューハイ等、多くの依頼をしてくださった五十嵐忠男先生を始め、何人もの先生方が乗せてくださいました」
また、せっかく移籍したのだからと自ら積極的に動いた。世界で名の知れる調教師の門を叩いたのだ。
「矢作(芳人)調教師の馬が何故、走るのか興味がありました。乗せてもらおうとか、そういう事ではなく、どうやって世界中で走れる馬を育てているのかを知りたくて、思い切って厩舎へ出向き、調教を手伝わせてもらえないか聞きました」
すると、世界の矢作に言われた。
「『一所懸命に頑張ってくれるなら良いよ』と言われました」
こうして調教に乗せてもらえるようになると、約束を破らないように、必死に頑張った。
「障害ばかりでなく、平地の馬の調教も乗せていただけました。また、レースではすぐにスーパーフェイバーで勝たせてもらいました。ありがたい限りです」
また、5月には栗東へ行った成果を早速出した。京都ハイジャンプ(J・GⅡ)をワーウルフで半馬身差の2着に善戦したのだ。
「この馬は普段、別の騎手が乗っていたのですが、僕が小倉に滞在していた時に、調教にだけは毎朝、乗っていました。そんな縁があり、重賞で乗せていただけたのですが、惜敗でした。デビュー14年目での初重賞があと一歩のところで逃げていき、悔しくて仕方ありませんでした」
あまりの悔しさに、その後、何度も同じ夢を見るようになった。
「重賞を勝つ夢を見るようになりました。目が覚めて夢だと分かる度に空しくて、淋しくなりました」
しかし、それが正夢になる日が来た。3月11日に行われた阪神スプリングジャンプ(J・GⅡ)。ジェミニキングの騎乗依頼を受けた。
「未勝利、オープンと強い勝ち方をしていた馬なのは分かっていました。『2戦連続で落馬した馬だけど大丈夫ですか?』と言われたけど、二つ返事で乗せてくださいと答えました」
レース前には「12年前に震災の起きた日」である事が分かっていた。中山大障害(J・GⅠ)の覇者ニシノデイジーを筆頭に、ミッキーメテオ、ゼノヴァースと走る馬が揃っていた事も当然、分かっていた。
「ただ、脈はあると思ったので、落馬を怖れずに攻める競馬を心掛けました」
すると、伸びあぐねる人気勢を尻目に、ゴール前、加速。12頭立ての10番人気で、単勝92・5倍のダークホースを先頭でゴールへいざなった。
「道中はいつもと同じ気持ちで乗っていたのですが、ゴール前で突き抜けた瞬間『重賞だ!!』と思うと、最後は自然とガッツポーズが出ました」
こうしてデビュー15年目で初めての重賞制覇を飾ると、レース後には沢山のお祝いのメッセージが届いた。
「僕に競馬を教えてくれた同級生から何年ぶりかの連絡がありました。木村先生や厩舎のスタッフ、既に引退なさった五十嵐先生からも連絡がありました」
そう言うと、ひと呼吸置いて、更に続けた。
「祖父は既に他界してしまったし、祖母も体調が芳しくないので直接の連絡はなかったけど、両親を通じて喜んでくれている事は伝えてもらいました。また、伊藤先生や後藤さんも、生きていればきっと喜んでくれたと思います」
初重賞制覇の翌日、33歳の誕生日を迎えた小野寺だが、更に翌々日の14日には調教中の落馬で病院へ運ばれた。
「幸い、記憶が飛んだくらいで骨には異常がなかったので、これからも気をつけて頑張ります!!」
考えてからだと行動出来なくなる時があるが、行動すれば嫌でも考えなくてはいけなくなる。だから小野寺はまず行動をする。その結果の重賞初制覇だったわけだが、これもまだ道の途中。これから先の彼にも注目しよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)