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織田信長と桶狭間の謎~信長の進軍ルートとは?

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

のちに天下人となる織田信長が歴史上に急浮上したのは、「桶狭間の戦い」で大大名・今川義元を破ったことにはじまる。尾張守護代の分家出身の信長は、戦国大名として名をとどろかせ、人生大逆転を果たした。

それだけでなく、桶狭間は信長の運命だけでなく、戦国史を大きく変えたのだ。

しかし、この有名すぎる桶狭間の戦いには謎が多い。なんといっても合戦の場である「桶狭間山」がどこであったかすら、研究者の間で意見が分かれる。現在の名古屋市緑区と豊明市の双方に「古戦場跡」が残っているのも興味深い。

信長がどのようなルートで戦場に向かったのかも、実ははっきりとは伝わっていない。居城である清州城(愛知県清須市)から桶狭間(名古屋市緑区もしくは豊明市)への約31.5kmの道筋は謎である。

記録に残っているのは、熱田神宮で戦勝祈願をおこなったこと。熱田神宮までに、信長がどの道を通ったかについては諸説あるのだ。

信長が駆け抜けたといわれるルートは3つ、どれを選ぶ?

信長の進軍ルートについては、2021年に名古屋市主催で「信長攻路(こうろ)~桶狭間の戦い 人生大逆転街道」(参考:信長攻路とは)という観光マップがつくられており、現在もイベントなどが継続中だ。

諸説ある進軍ルートの中でも有力とされているのが「美濃(みの)街道」「鎌倉街道」「稲生(いのう)街道」の3本だという。

〇鎌倉街道…「出世勝運ルート」の『揚羽道』全長16.8km(熱田神宮まで)
〇美濃街道…「大願豪遊ルート」の『木瓜道』全長31.5km(桶狭間まで)
〇稲生街道…「恋愛昇運ルート」の『永楽道』全長17.9km(熱田神宮まで)

どれも始点は清須城。揚羽道と永楽道は熱田神宮まで、木瓜道のみ桶狭間までのため、ほぼ倍の距離となっている。

「信長攻路」では、この3本のルート上にある史跡が「立ち寄りスポット」として設定されている。たとえば「出世したい!」人なら『揚羽道』を選んで進むと、「出世のご利益のある立ち寄りスポット」の寺社巡りができる。

信長が通った(かもしれない)道を行き、パワースポットや史跡をめぐることで、「桶狭間で逆転した信長の武運にあやかろう」ということなのだ!

もしかすると、史跡をめぐるうちに、信長の新たな側面や桶狭間の謎にグッと迫れるかもしれない。歴史好きにはたまらないイベントである。

稲生街道と「稲生の戦い」

前回記事に書いた蛇池公園(関連記事:「織田信長の知られざる一面『化け物退治』と『暗殺未遂事件』とは?」 2024年1月7日)があるのは、名古屋市北西部の端、「山田地区」である。信長攻路の起点・清洲城からもほど近い

この地区にも信長攻路・「稲生街道」(恋愛昇運)の立ち寄りスポットがあるという。そのうちの一つ「星神社」に初詣に行ってきた。

なお「稲生」とは、桶狭間の4年前の1556年、信長と弟・信勝(信行)との家督争いから起きた「稲生の戦い」の舞台となった場所。

当時の信長は素行が悪い「うつけ者」と呼ばれており、弟の信勝に加勢する者が多かったが、兵力差をものともせず、戦は信長軍が勝利

信勝は母の土田御前の助命願いにより放免されるが、さらに信長への反逆を図り、信長によって誅殺(ちゅうさつ)された。こうして信長は家督争いの勝者となり、桶狭間の逆転劇へとつながるのだ。

「縁結び・夫婦円満」の社・星神社

そんなわけで、星神社へ!

最寄りの名鉄中小田井駅からしばらく行くと、立派な社殿が現れた。恋愛昇運ルートの稲生街道にあるため、星神社も恋愛成就・夫婦円満のご利益があるという。

星神社は、仁和年間(885年〜888年)に建立されたともいわれるが、創建年代は不明とされるほど古い神社。近くを流れる庄内川を「天の川」に見立てた七夕伝説が残る。

主祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)。七夕伝説から星の神である天香香背男(あめのかがせお)、牽牛星(彦星)、織女星(織姫)を合祀。毎年8月7日には七夕祭が開催される。

恋愛成就の縁結び絵馬は織姫と彦星の二体をひもで結び、離れないようにと祈る珍しいもの。

土手から眺める星神社。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

水害から名古屋城を守るために堤防を切った「小田井人足」

古来、川の近くには多くの寺社が作られ、水神の怒りを鎮める祈祷をおこなってきたとされる。星神社のある小田井地区も昔から、庄内川の水害に悩まされてきた。

小田井地区は、庄内川を挟んで、名古屋城下町の反対岸に当たる。江戸時代、庄内川が氾濫すると城下町側の堤防の決壊を防ぐために、小田井村側の堤防を村の人足(にんそく)に切らせて水を流したという。

当然、小田井の人足たちは自分たちの村に水を流させたくはない。そこで、せめてもの抵抗として、わざとゆっくり作業をして、水が引くのを待った。ここからあまり働かない人足のことを「小田井人足」と呼ぶようになったそうだ。

「星に願いを」スターの大願も叶う?

「星神社」にちなみ、「明日のスター」を夢見る人の大願成就の祈祷もおこなっている。

スターといえば、昭和の大スター・弘田三枝子さんが2019年(令和元年)に星神社にて歌唱奉納をおこなったという。洋楽カバーや和製R&Bの元祖ともいえる弘田さんは、2020年7月逝去

Wikipediaには、「2019年12月8日の名古屋市の星神社で催された御本殿竣功奉告祭が最後のライブになった」と記されている。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

信長攻路の銘板も設置されていた。今回の「恋愛運の稲生道」だけでなく、「出世勝運の鎌倉街道」や「大願豪遊の美濃街道」を訪ねてみたい。

コロナ禍にはじまった信長攻路、ようやく収まった2024年こそ、楽しめるのではないか。『どうする家康』フィーバーの去った今、静かに「武将の足跡」を味わってみるのもオススメである。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

「織田の井戸」と呼ばれた「小田井」を歩く

星神社は名鉄犬山線の中小田井駅から徒歩10分。

名古屋駅から中小田井駅までは、各駅停車で9分
名古屋駅から中小田井駅までは、各駅停車で9分

小田井の名の由来は諸説あるが、南東部を通る水路が織田丹波守領内の用水だったため、「織田殿の井通(井戸)」と呼ばれていたことから、付近に小田井村の名がついたとされる。

小田井には、江戸時代につくられた「岩倉街道」の古い町並みが残され、名古屋市により「中小田井町並み保存地区」(1987年)に指定されている。

「岩倉街道」は、名古屋城下から国宝・犬山城のある犬山まで続く街道である(始点は枇杷島橋、終点には諸説あり)。始点の枇杷島には大きな青物市場があり、野菜などを運ぶ人々でにぎわった。

ここからは「信長攻路」を離れて、「岩倉街道」の名刹をめぐり、このあたりに伝わる歴史に触れてみたい。

岩倉街道の町並み(撮影:宮田雄平)
岩倉街道の町並み(撮影:宮田雄平)

異教のご神体に会える「善光寺別院願王寺」

岩倉街道沿いに点在する複数の寺社の中で最も大きな寺がこの善光寺別院願王寺(別名:小田井善光寺)である。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

運よく住職にお話を伺うことができた。

淳和天皇の829年(天長6年)、願王寺として開祖。薬師如来を本尊として、当時大流行した疫病治療に当たったとされる。1573年(天正元年)には、小田井城主だった織田信張が七堂伽藍を整備。

非常に歴史あるお寺なのだが、不思議なことに、仏像ではない像が数体安置されている。

鳥居を入るとすぐに、ヒンドゥー教の霊鳥・迦楼羅(ガルーダ)に乗る「ヴィシュヌ神」と「ラクシュミー妃神」が対になって鎮座。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

霊鳥・迦楼羅に乗るヴィシュヌ神(もしくはラクシュミー妃神)(撮影:宮田雄平)
霊鳥・迦楼羅に乗るヴィシュヌ神(もしくはラクシュミー妃神)(撮影:宮田雄平)

韓国済州島守護神のトルハルバン像。日本でいう道祖神(集落の外から来る疫病や悪霊を防ぐ神)のことのようだ。

トルハルバン像(右)(撮影:宮田雄平)
トルハルバン像(右)(撮影:宮田雄平)

本堂の廊下には秦の始皇帝の兵馬俑も置かれていた。

住職によると「これらの像は、先代が旅行先で買ってきて置いたもの」だという。「どういった意図でこちらに置かれたのでしょうか?」「そうですね、珍しいものをみなさんに見てほしいと思ったんじゃないでしょうか」

これだけの由緒ある名刹に、このように異教の神像が複数置かれているのは、非常に珍しいのではなかろうか。しかも、敷地の隅ではなく、入り口近くである。不思議な光景だが、前住職の想いが伝わる光景でもある。

咳・ぜんそくの善光寺へちま薬師

山門を奥に入ると、左手にガラス張りのモダンな本堂が現れる。1975年(昭和50年)完成の現在の本堂。設計:山崎泰孝・施工:昭和土建。1976年度(昭和51年度)日本建築学会賞を受賞。

この本堂目当てに訪れる人も少なくない名建築だ。

明治時代には、信州善光寺より本尊の善光寺薬師如来を勧請。1929年(昭和4年)に撞木づくりの本堂を建立した。それ以降「善光寺別院願王寺」と呼ばれるようになったとのこと。

昭和4年建立の豪壮な本堂(撮影:宮田雄平)
昭和4年建立の豪壮な本堂(撮影:宮田雄平)

老朽化で現在の鉄骨造の本堂に生まれ変わったが、元の梁や柱はそのまま生かしているそうで、あちこちに往時のたたずまいがしのばれる。

かなり天井が高いが、住職によれば、以前の本堂はもっと大きかったのだそう。

以前の本堂の屋根飾りの瓦が残る(撮影:宮田雄平)
以前の本堂の屋根飾りの瓦が残る(撮影:宮田雄平)

薬師如来像を安置する「へちま薬師堂」

咳・ぜんそく治癒のご利益があるという「へちま薬師」には遠方からも参拝に訪れる。

本堂建立の翌1930年(昭和5年)に建立されたへちま薬師堂

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

薬師如来三尊像(脇侍は日光菩薩・月光菩薩)。薬師如来は慈覚大師(じかくだいし:第3代天台座主・円仁≪えんにん≫)作と伝わる。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

そこここに残る「立葵(タチアオイ)」の紋

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

644年(皇極3年)創建の善光寺(長野市)の由来となった本田善光「立葵」を善光寺の寺紋として使用したことからはじまるという。

「立葵」の家紋は、徳川四天王の一人・本多忠勝の家紋として有名だ。もともと「本多」と「本田」は同一だったとされることにも一致している。

五柱の神を祀る「五所社」

願王寺のすぐ近くには、これまた珍しい神社がある。中小田井村の氏神で、五柱の神を祀る、その名も「五所社」だ。本社は八幡で、白山、神明、天神、愛宕、熊野を祀る。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

主神を祀る本殿以外にも、津島社・秋葉社・国府宮社・金毘羅社の末社(まっしゃ:主祭神以外の神を祀る小規模の社殿)が祀られている。

右上は舞殿状の拝殿で、前面に立派な龍の彫り物(撮影:宮田雄平)
右上は舞殿状の拝殿で、前面に立派な龍の彫り物(撮影:宮田雄平)

ここに参れば、一度にいくつもの寺社に参拝したことになるのだろう。なんというか、言葉はよくないかもしれないが、いわゆる「コスパ・タイパの良い神社」ということになるのだろうか…。

まるで結界を張るかのように並んだ門松が美しかった。

撮影:宮田雄平
撮影:宮田雄平

ここまでご紹介した史跡は、名鉄中小田井駅より徒歩10分以内に点在する。この近隣には、清須城の支城として建てられ、織田氏の治めた小田井城(於田井城)跡も残る(最寄り駅:名鉄下小田井駅)。名古屋駅からもほど近く交通至便なので、ぜひ訪れてみてほしい。

(絵・文 / 陽菜ひよ子 写真 / 宮田雄平(写真家・記載あるもののみ・iPhone撮影))

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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