織田信長の知られざる一面「化け物退治」と「暗殺未遂事件」とは?
みなさまが、戦国武将・織田信長にもつイメージはどのようなものだろうか?一般的には「革新的」な天下人であると同時に「残忍」なイメージを持つ人が多いだろう。
歴史研究は現在も更新されていて、昨今の信長研究では、「実はそれほど革新的ではなかったのでは」というのが主流のようである。が、それはさておき。
比叡山の焼き討ちや、一向一揆での大量殺戮など、信長の「残虐性」は、史実が物語っている。しかしその反面で、領民には意外と親しみやすい領主だったともいわれる。今日はそんなエピソードを一つ。
信長が自ら大蛇退治に出向いた「蛇池公園」
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』で、帰蝶(濃姫)との祝言をすっぽかした信長に、帰蝶が「何をしていたか」と問うと「あまが池で村人と一緒に化け物退治をしていた」と答えるシーンがあった。
筆者の住む名古屋市内には、このとき信長が化け物退治をした「あまが池」が実在する。
名古屋市西区にある「蛇池(じゃいけ)公園」である。信長が退治に向かったのは大蛇だったため、この事件をきっかけに「蛇池」と呼ばれるようになった。
蛇池のほとりには、蛇池神社の拝殿も建てられている。
蛇池神社は、正式名称を龍神社といい、蛇池にはもともと龍神信仰があったとされる。辰年の今年、お参りするにもふさわしい。
信長の大蛇退治とは?
あるとき、この池で大蛇を見たという村人の噂を聞き付けた信長が池に出向き、家臣や村人に命じて池の水を汲みだした。しかし、いくら汲んでも池は枯れない。
しびれを切らした信長は、なんと自ら池に入って探したが、大蛇は見つからなかった。
最終的には池の水を全部抜いて10日ほど乾かし続けたが、何も見つからず、ついに信長はあきらめたとのこと。
この事件は「何事もとことんやらないと気が済まない」信長の性格を説明する例えとしてよく登場するエピソードだという。
同時に、家臣や敵には非常に厳しかったとされる信長の、人間味のある一面が垣間見られるのではないだろうか。
下の者にも分け隔てなく接したという信長
農民出身の豊臣秀吉を重用したように、相手の出自は問わなかったであろう信長。
権力を持つ者に対しては刃向かう一方で、目下の者にはフラットに接したともいう。
彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。彼はごく卑賎の家来とも親しく話をした。目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。
(宣教師ルイス・フロイスによる『フロイス日本史』による信長評)
もちろん、そうした部分があったところで、多くの罪のない人々を残酷に殺戮したことの言い訳にはならない。
それでも陰影に富む彼の横顔は魅力的である。
『麒麟がくる』の信長像は「母の愛情に飢えた、承認欲求の塊」だった。『どうする家康』の信長は妹のお市いわく「誰も信頼できないかわいそうな人」。
どちらの信長も主人公(明智光秀や徳川家康)には絶大な信頼を置いていた。『麒麟』では光秀に認められて喜ぶ信長の茶目っ気が描かれ、『どうする』では「家康だけが信長のただ一人の友である」とお市に語らせ、その友に殺されることを望んだ。
実際の信長がどのような人だったかは、資料をもとに紐解いていくしかない。今後の研究で、さらにその実像に迫る日が来るのを待ちたい。
無念の死を遂げた信長の忠臣・佐々成政の生誕地「比良城跡」
蛇池公園のある名古屋市西区比良には、信長の家臣・佐々成政(さっさなりまさ)の生まれた比良城跡がある。蛇池公園からは歩いて10分ほど。
成政は、信長直属の使番(つかいばん)である黒母衣衆(くろほろしゅう)の筆頭として、武功を積み活躍。
越中国の大名まで登り詰めた成政の運命は「本能寺の変」で信長が非業の死を遂げたことで、大きく暗転する。
信長への忠義心の強い成政は、柴田勝家や徳川家康とともに、秀吉に抵抗し続けた。
ところが、「小牧・長久手の戦い」では、担ぎ上げたはずの織田信雄が秀吉と和解し、家康もそれに追従してしまう。
孤立した成政は、真冬の北アルプス・立山連峰を超えて、越中から家康のいる浜松まで向かった。これが成政の逸話としてよく知られた「さらさら越え」である。
厳冬の雪山を命がけで向かうも、家康の説得には失敗。秀吉に降伏して越中国の所領のほとんどを秀吉に奪われてしまう。
その後も成政の不運は続く。九州征伐で武功を上げ、肥後国の大名となるが、肥後国人一揆が勃発。鎮圧できなかった責任を問われて改易、さらに切腹を命ぜられたのだ。
未遂に終わった信長暗殺計画
佐々成政の生涯を一言でいえば無念。信長さえ生きていればと幾度も思ったことだろう。
しかしなんと、成政は若き日に「信長暗殺」を企てたというのだ。それがちょうど信長が蛇池に大蛇退治に来ていた時だという。
成政は「信長が大蛇退治のためだけにわざわざ来るわけがない。大蛇退治にかこつけて、わが居城を奪い取る気だ」と疑心暗鬼になっていた。
それを聞いた家老が、「この城に信長が訪れたら自分が場内を案内するふりをして討ち取る」と約束し、綿密な計画を立てたのだ。
しかし、信長は本当に大蛇退治だけが目的だったので、比良城には寄らずに帰ってしまった。
かくして「信長暗殺計画」は未遂に終わったのであった。
蛇池公園&比良城へのアクセスと「おまけの話」
蛇池公園…東海交通事業城北線「比良」下車4分
比良城跡(光通寺)…東海交通事業城北線「比良」下車3分
余談だが、蛇池公園で地元の人から興味深い話を聞いた。
「関ヶ原の戦い」の勝敗を決めたといわれる大名・小早川秀秋は秀吉の正室・高台院の甥である。秀秋の死後、小早川家は改易。残った人々(家臣?)が武士をやめて比良のあたりに戻り、小川家と早川家に分かれて存続したと伝わるという。
現在も比良には小川さんと早川さんが多く、宗家は代々続く名家。そういわれて付近を歩くと、何やら立派なお屋敷が、と表札を見ると本当に小川さん…!
やや古いデータだが、2007年の電話帳登録数によれば、このあたりに多い苗字として、小川さんが1位、早川さんは3位となっている。多いのは確かなようだ。
小早川家ゆかりの者の末裔であるとは…史実だとしたらロマンのある話だ。
なお、秀秋自身は近江国生まれで、父の木下家定の生家が尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)。蛇池公園から清須市までは、歩いて1時間半ほど。現代の我々にとっては微妙な距離だが、当時の人々にとっては、なんてことない距離だったのかもしれない。
(絵・文 / 陽菜ひよ子 写真 / 宮田雄平(写真家・iPhoneにて撮影))