ドラマ『教場』で見せた木村拓哉の新境地、そのルーツとは?
『教場』のインパクト
フジテレビ開局60周年記念の新春SPドラマとして、木村拓哉主演による『教場』が2020年1月4日と5日の2夜連続、前後編にわたって放送された。
評価の高い長岡弘樹の原作、『踊る大捜査線』シリーズで知られる君塚良一の脚本、『若者のすべて』(フジテレビ系、1994年放送)から木村拓哉をよく知るスタッフである中江功の演出、さらに佐藤直紀の印象的な音楽が相まって見ごたえ十分な作品になったと言えるだろう。また生徒役で出演した工藤阿須加、川口春奈、林遣都、葵わかな、井之脇海、西畑大吾、富田望生、味方良介、村井良大、大島優子、三浦翔平らも、作品の力に引っ張られるように記憶に残る演技を披露していた。前編15.3%、後編15.0%(ビデオリサーチ調べ。関東地区)という視聴率からも、多くの視聴者を惹きつけたのがわかる。
そのうえで、やはりここで注目したいのは警察学校の教官・風間公親を演じた木村拓哉の存在である。
風間の人物設定は、警察官としての適性のない生徒をふるいにかけ、有無を言わさず学校を辞めさせる冷徹な教官というかなりインパクトのあるものだった。つい先日まで放送されていた同じ木村拓哉主演の『グランメゾン東京』(TBSテレビ系、2019年放送)がミシュランの三つ星という大きな夢を目指すシェフたちの“大人の青春”を描いた作品であったのとは対照的である。
それもあってかSNSなどを見ると、『教場』の木村拓哉に対して「キムタクっぽくない」「キムタクのイメージが覆された」というような感想も散見された。白髪に義眼というビジュアルもあっただろうが、それ以上に風間公親の人物像がそう感じさせたのだろう。
ただ一方で、今回の役柄は俳優・木村拓哉の歴史と無関係なものではない。むしろ彼がこれまで演じてきた役柄にそのルーツはある。では実際、木村拓哉の見せた新境地はどのようなところから生まれたのか、『教場』という作品の魅力とともに探ってみたい。
刑事ドラマとしての『教場』
『教場』は多面的な作品だ。まずひとつが刑事ドラマとしての一面である。
風間公親は、警察学校の教官になる前は優秀な刑事だった。そして警察学校のなかでも、つい見逃してしまいそうなささいな事実からその裏に隠された生徒たちの秘密を暴いていく。入浴剤の存在とトイレ掃除用の洗剤の紛失から平田和道(林遣都)の危険な計画を察知したり、指の独特の汚れなどから南原哲久(井之脇海)が筋金入りの銃マニアであることを明らかにしたりする。他の生徒たちに関しても、風間の並外れた洞察力が問題を解決へと導いていく。
こうした鮮やかな謎解きの快感は、刑事ドラマにとって欠かせないものだろう。たびたびドラマの原作や原案となるシャーロック・ホームズものがそんな謎解きものの古典であることはいうまでもない。現在も日本で続いているシリーズとしては、『相棒』(テレビ朝日系)が思い浮かぶひとも多いだろう。水谷豊演じる杉下右京もまた、鋭い洞察力に基づいた推理力を駆使して事件を解決に導いていく。右京の終始冷静なところは、風間公親にも似ている。
ホームズにはワトソン、杉下右京には亀山薫らの行動をともにするバディがいたが、この『教場』ではそれにあたる明確なバディはいない。ただ風間は宮坂定(工藤阿須加)や楠本しのぶ(大島優子)など生徒に課題として他の生徒の情報収集、つまり“スパイ行為”をさせる。それが刑事ドラマ的には即席のバディにもなっている。
特に前編は刑事ドラマのような色が濃く、次々と起こる事件を風間が“犯人”の先回りをして小気味よく解決していく構成が成功していた。それによって後編への興味をつなげられた視聴者も多かったのではあるまいか。
学園ドラマとしての『教場』
ただ後編では、刑事ドラマ的な色彩は薄まる。それに代わって前面に出てくるのが学園ドラマ的な展開だ。
たとえば、風間への恋心と2人の友情が描かれる菱沼羽津希(川口春奈)と枝元佑奈(富田望生)のパートや元ボクサーで勉強の不得手な30代の生徒・日下部准(三浦翔平)に風間が手を差し伸べるパートは、教育者としての風間の厳しいなかにも優しい一面が垣間見えるエピソードになっている。
そして物語のクライマックスは、風間が生徒を卒業させるかどうかを最後に判断する教室のシーンである。ここで都築耀太(味方良介)をはじめとする生徒たちは、最初から答えを与えられるのではなく警察官になることの意味を自分たちで発見するよう導かれる。このシーンがあることで、その直後の卒業式のシーンがより感慨深いものになっている。
ここで連想するのは、学園ドラマの歴史を変えたとされる『3年B組金八先生』(TBSテレビ系)のシリーズだろう。
1979年に第1シリーズが始まったこの作品は、学園ドラマをリアリズムの方向に転換させた。それまでの学園ドラマが熱血教師のスーパーヒーロー的活躍によって問題を解決していく現実離れした爽快さを目指したものだったとすれば、生徒一人ひとりの悩みや苦しみを現実に沿って描こうとしたのが『3年B組金八先生』だった。そこでは、武田鉄矢演じる坂本金八ら教師の助けを得ながら、生徒たちはそれぞれが直面する受験や家庭、恋愛などの問題に向き合い、自分で答えを見出す。学園ドラマとしての『教場』は、この『3年B組金八先生』の系譜を受け継ぐ作品と言える。
とはいえ、金八はまだ十代半ばの中学生が相手。自然に生徒たちと同じ高さの目線に合わせることになる。それに対し、風間公親は警察学校ということもあり、生徒たちを厳しく突き放す立ち位置を崩さない。
風間公親のルーツはこれまで演じた武士役
結局、この超然とした佇まいこそが風間公親をユニーク、かつ魅力的に見せているのだろう。そして木村拓哉の新境地と多くの人たちが思った理由もひとつそこにあるのではないだろうか。
確かにそれは、「キムタク」と聞いてパッと思い浮かぶものとは違うかもしれない。しかしそのルーツは、彼がこれまで演じてきた役柄のなかにちゃんと存在している。その役柄とは、武士である。
『教場』では、たびたび風間公親が剣道をする場面が登場する。そのシーンは、ドラマの本筋と直接の関係はない。しかし、そこに漂うピンと張り詰めた空気は、風間の人物像を無言のうちにわからせてくれる点で作品にとっても重要なものだ。
そして単に竹刀を持つ姿というだけでなく、そこからひしひしと伝わる一種の精神性には、これまで木村拓哉が映画やテレビのなかで何度か演じてきた武士役とオーバーラップするものがある。
たとえば、映画『武士の一分』(2006年公開)。ここで木村拓哉が演じた三村新之丞は、藩主の毒見役。ある日、その仕事で食した料理の毒に当たり、失明してしまう。職も失い、絶望する新之丞。しかし彼は、妻がそんな自分を救おうとして藩の上役に欺かれ弄ばれたことを知り、盲目でありながら果し合いを挑むことを決意。剣の修行に打ち込むようになる。
木村拓哉が剣道の経験者であることはファンならばよく知る話だろう。そういうこともあってか、ある対談のなかで彼はこんな発言をしている。「自分の人生を支えてくれる言葉って「志」なんです。武士の士に心を書いて『志』」(『THE SMAP MAGAZINE』より)。
この言葉からは木村拓哉の武士という存在への強い思い入れがうかがえる。と同時に、『武士の一分』がそのような意味での「志」をテーマにした物語であることにも気づく。もちろん武士であるからには武芸を磨かなければならない。だがそのためにはまずこころを鍛え、研ぎ澄ませなければならない。それを物語的に象徴するのが、三村新之丞の失明という設定である。
この設定は、風間公親が刑事時代にかかわった事件で若き同僚を失い、自らも右目が義眼になったことと通じ合うものがある。その点を含めて、『教場』における剣道シーンは風間のなかにある「志」を表現するものと言えるだろう。
では、風間にとって「志」、武士のこころとは具体的にどのようなものなのか?
ここで思い出されるのは、木村拓哉が武士を演じたもうひとつのドラマ『宮本武蔵』(テレビ朝日系、2014年放送)である。そのなかで彼が演じる宮本武蔵は、真の強さとはなにかを追い求めた結果、「弱くあること」という一見矛盾した答えにたどり着く。剣とは武器であり、それによって他人の命を奪うこともできる。実際、武蔵は数々の決闘でそうしてきた。だがだからこそ、その力に頼ってしまいがちな自分の弱さを知らなければならない。人間の弱さを自覚すること、それが真の強さだと武蔵は思い至る。
それは警察官も同じはずだ。銃の携帯を許された警察官もまた、力を持つ存在だ。もちろんそれは、社会秩序を保つために必要と認められたからではある。しかしそれだからこそ、自分も含め人間はみな弱いものであることをいつも肝に銘じていなければならない。最後の教室のシーンで風間が都築を問い詰め、警察官になろうとした真の動機が「苦しむひとの傍に立つ」ため、つまり弱い立場に置かれたひとに寄り添うためであったことを吐露させる場面は、まさにそれを示すものだろう。
「キムタク」というイメージからの脱却
『教場』というドラマの発明は、そんな風間公親のような武士的人物を時代劇ではなく現代劇のなかに置いたことにある。もちろんどんなシチュエーションでもよいわけではない。いま述べたように警察学校は強さと弱さについて誰もが考え、突き詰めるべき場所である点で風間公親という“武士”にとって最もふさわしい舞台だ。
逆に言えば、現代社会にいきなり本物の武士が登場したような意外性の魅力が『教場』にはある。そしてこの役は、先ほどの「志」の発言からもわかるように、木村拓哉というひとの本来の資質、そしてそれに根差した演技の魅力を十二分に生かせるものであった。
その意味においてこの作品は、「キムタク」という大きくなりすぎたパブリックイメージから脱却するうえでの重要な足掛かりになり得るものに違いない。