ついに解散「記憶に残るジャニーズ」V6の26年が体現した、アイドルグループの理想像
2021年11月1日、V6が解散の日を迎えた。これまで多くのジャニーズグループが生まれ、なかには解散という結末を迎えたグループもあった。だがV6の解散については、これまでに感じたことのない特別な思いもわいてくる。それはきっと、V6がアイドルグループのひとつの理想像を体現していたからだろう。その理想像とは、どのようなものだったのだろうか?
V6は「記憶に残るジャニーズ」
V6のCDデビューは、いまからちょうど26年前の1995年11月1日。デビュー曲の「MUSIC FOR THE PEOPLE」は、バレーボールの国際大会のイメージソングだった。このパターンは、嵐など多くのジャニーズの後輩グループに引き継がれることになる。
歌手としてのV6についてまず特筆すべきは、楽曲の幅広さである。「MUSIC FOR THE PEOPLE」は当時流行のユーロビートで、メンバーの長野博が主演した『ウルトラマンティガ』のオープニングテーマ「TAKE ME HIGHER」(1996年発売)など、他にも同様のヒット曲があった。その一方で、誰もが一緒に口ずさめるタイプのヒット曲が、彼らの持ち味でもある。玉置浩二の作曲で、目下のところ最大の売り上げとなっている「愛なんだ」(1997年発売)、2014年『NHK紅白歌合戦』に初出場した際にも歌った「WAになっておどろう」(1997年発売)が、その代表格だ。
またメンバー個々のソロ活動も盛んだ。
歌唱力に定評のある坂本昌行はミュージカルで活躍、長野博は食通として知られ、それに関連した番組出演も多い。井ノ原快彦はMCとして際立った存在であり、『NHK紅白歌合戦』の司会も務めた。三宅健はバラエティ番組で異彩を放つとともに、達者な手話を活かしてオリパラ関連の番組で司会も務める。森田剛と岡田准一は、ともに俳優として確固たる地位を築いている。森田は、映画でシリアルキラー役を演じるなどジャニーズのイメージにとらわれない個性派俳優の道を歩んできた。また岡田は、宮藤官九郎脚本のドラマやNHK大河ドラマで主演を務める一方、アクション系の作品にも熱心に取り組んできた。
ただV6の場合、こうした実績を列挙するだけでは、その魅力の本質は伝わらないだろう。
ジャニーズグループには、驚異的なCD売り上げや連続チャート1位を記録し、ライブに何万人もの観客を動員するグループも少なくない。いまも見たように、V6もまた華々しいデビューを飾り、多彩な分野で活躍してきた。しかし、V6には、そうした面だけでは語り尽くせない魅力がある。V6は、記録ではなく記憶に残るジャニーズなのである。それは、彼らがまさに私たちとともに歩んできたグループだからだ。
「ずっと変わらずにそこにいてくれる」という感覚
V6がデビューした1990年代は、ジャニーズの歴史の大きな変わり目であった。
この時代にデビューしたSMAP、TOKIO、KinKi Kids、嵐は、歌手としてだけでなく、テレビに冠バラエティ番組を持ち、それを通じて世の中に親しまれるようになった。歌い踊る姿は遠い憧れの存在だが、バラエティ番組で素の表情を見せる彼らはみな親しみやすかった。ジャニーズがテレビを通じてより身近になった時代、それが1990年代だった。
V6も例外ではない。ある意味では、他のグループ以上の親しみやすさが彼らにはあった。先日もスペシャルが放送された『学校へ行こう!』(TBSテレビ系、1997年放送開始)などを見てもわかるように、日本の津々浦々の学校を訪れ、「未成年の主張」などで中高生たちの悩みや思いに耳を傾け、時にはともに汗や涙を流す彼らの姿は、年齢や性別を超えた親しみやすさにあふれていた。
そしてその親しみやすさは、V6の場合グループとしての継続性や、変わらなさがもたらす安心感によって支えられていた。
V6は、デビューから今まで25年以上にわたり、休まず活動を続けてきた。デビュー25周年の際には、自ら「勤続25年の男たち」と称していたほどだ。しかもこの間、オリジナルメンバー6人から一人として欠けることがなかった。そのことが、彼らの醸し出す絶対的とも言える安心感につながっていた。
こうして、親しみやすさと安心感を兼ね備えたV6に対し、ファンのみならず、多くの人びとが、いつしか「ずっと変わらずにそこにいてくれる」という身内のような感覚を抱くようになっていたと言えるだろう。そうしたポジションを確立したグループは、ジャニーズの歴史を振り返ってみてもあまり思いつかない。だからこそ、そのV6が解散するという3月の発表には、驚いたひとも多かったはずだ。
1990年代がもたらしたアイドル像の変化
そんなV6のありかたは、日本社会が直面した時代の変化のなかにおいても貴重なものだった。
V6がデビューした1995年は、戦後の歴史のなかでも大きな節目となった年だった。1月に阪神・淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が起こるなど、当たり前に続くと思っていた日常が足元から崩れてしまうような出来事が続いた。一方でWindows95が発売され、インターネットの普及が本格化するという新しい時代への兆しもあったが、すでに始まっていたバブル崩壊による経済の停滞と併せ、やはりそれらの出来事がもたらした不安は大きかった。
そのなかで従来にも増して存在価値を高めたのが、アイドルだった。とりわけ、先ほども述べたようにテレビを通じてより身近な存在になっていたジャニーズアイドルは、さまざまな困難のなかで不安を増す人びとに寄り添う存在として、ある種の社会的な役割を担うようになっていく。
SMAPなどもそうだったが、V6もまた彼らなりのやりかたで人びとに寄り添った。
1997年12月には、阪神・淡路大震災からの復興支援を目的に、同じ90年代デビュー組であるTOKIO、KinKi KidsとともにJ-FRIENDSを結成。マイケル・ジャクソンからの楽曲提供も受けたこのスペシャルユニットは、2003年3月まで歌手活動とともにチャリティ活動を続けた。いまやジャニーズの恒例イベントとなっている年末の「ジャニーズカウントダウンライブ」も、元はと言えば1996年のV6、1997年のJ-FRIENDSによるチャリティイベントとして始まったものだった。
アイドルグループの理想像を示したV6
こうしてジャニーズ史と日本の戦後史のそれぞれの転換期が重なるなかで誕生し、活動を続けたV6。彼らは、ジャニー喜多川がプロデュースしたアイドルグループの最高傑作のひとつだったのではないかと思う。
生前ジャニー喜多川は、「アイドルづくりは人間づくり」であると言っていた。ある時、演出家の蜷川幸雄がヒゲを生やした森田剛を見て、冗談交じりに「よくジャニーズにいられるね」と言ったそうだ。するとその話を聞いたジャニー喜多川は、「人間はそれぞれみんないいところがある」と言い、「アイドルづくりは人間づくり」なのだと持論を述べていた(『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』NHKラジオ、2015年1月1日放送)。
このように、ジャニー喜多川のアイドル育成は、人間にはそれぞれ必ず長所があるという揺るぎない確信から出発していた。そしてそんな各人の多様な個性が最大限に活かされ、成長していく場としてあるのがグループだった。
リーダーの坂本昌行は、V6として集まった6人を見て、「この6人はまとめようと思っても、まとまらないなと思った。むしろ僕の言葉でまとまるようでは、つまらないグループになっちゃうなと」思ったという(『サンケイスポーツ』2014年12月27日付記事)。期せずして坂本は、ジャニー喜多川が考えるアイドルグループのあるべき姿を理解していたのである。
そして26年間、ジャニー喜多川の理想を具現してきた「V6」という物語は、ひとまず完結した。
三宅健は、ラジオ番組『三宅健のラヂオ』(bayfm)のなかで、「ジャニーさんが作ってくれたこのグループが本当に僕は大好きだし、1人も欠けることなく25周年を僕たちが迎えられたのは、喜んでもらえているのかな」としたうえで、今回の解散について「ジャニーさんが作ってくれたものを、一番きれいなかたちで、大切な箱にしまえるのかもしれない」と語っていた(2021年3月15日放送回)。そこには、ジャニー喜多川への深い感謝とともに、V6を6人で守り抜いたことへの強い誇りが感じ取れる。
だがもう一方で、1990年代に私たちの社会が抱えることになった困難や不安は、まだ解消されたとは言えない。そして昨年来のコロナ禍は、私たちのなかの不安をいっそう増してもいる。安心がこれほど求められる時代もないだろう。存続するトニセン(坂本、長野、井ノ原)のユニット活動や6人個々の活動は今後も楽しみだ。だがそうした時代が続く限り、私たちはV6というアイドルグループのことを折に触れて思い出すことになるに違いない。