中途半端な形で終わった刑事司法制度改革 議論の発端となった張本人として思うこと
2010年に表面化した大阪地検特捜部の証拠改ざん・犯人隠避事件を契機として、5年超にわたって議論が進められてきた刑事司法制度の抜本改革。
通常国会で可決成立した改革関連法は、起訴前の被疑者国選弁護制度を現在の比較的重い犯罪から勾留された全事件に拡大するなど、一部で前進も見られる。
しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざどおり、全体としては当初の反省から程遠い、中途半端な改革で終わったと評価せざるを得ない。
続発する不祥事、空文と化しつつある「検察の理念」
過去、検察では、ストーリーどおりの供述獲得を強く指示する上司からの重圧に負け、意に沿わない参考人を蹴るなどして負傷させた検事や、未処理事件の早期処理に向けた上司からの重圧に負け、告訴取下げ書や不起訴裁定書をねつ造した検事らが起訴され、有罪判決を受けてきた。
しかし、検察はそのたびにその検事や上司固有の問題として片付け、組織やシステムの欠陥を省みることなく推移した。
その後、検察の信頼を地に落とす証拠改ざん・犯人隠避事件により、ようやく抜本的な検察改革の方向性が打ち立てられ、2011年に以下のような「検察の理念」が策定された。
「権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する、謙虚な姿勢を保つべきである」
「法令を遵守し、厳正公平、不偏不党を旨として、公正誠実に職務を行う」
「被疑者・被告人等の主張に耳を傾け、積極・消極を問わず十分な証拠の収集・把握に努め、冷静かつ多角的にその評価を行う」
このように、犯罪という表に出にくい水面下の不正行為を暴き出して国家の治安を維持するのはほかならぬ我々であり、その判断や権限行使には絶対に間違いなどあり得ないという無謬(むびゅう)神話に酔いしれ、謙虚さを欠いた独善的な正義感に対する反省こそが、刑事司法制度の抜本改革を目指した原点だった。
にもかかわらず、その後、2012年のPC遠隔操作事件では、真犯人の登場に至るまで全く無関係の人物を次々と4人も逮捕・勾留し、そのうち2人を虚偽自白に追い込み、否認のままだった者を含め、起訴や家裁送致を行った。
2013年には、大阪のガソリン窃盗事件で、アリバイのある無関係の人物を否認のまま誤認逮捕・勾留、起訴した後、起訴を取り消すに至った。
このほか、佐賀の検事が取調べ室で否認する被疑者に対してカッターナイフを示した件や、東京の検事が同じく取調べ室で被疑者に対して犯行を認めれば軽い処分にすると発言して自白を迫り、弁護人を解任すれば接見禁止を請求しないと発言した件なども表面化した。
痴漢や盗撮、捜査情報の漏えい、窃盗などで検事や検察事務官が次々と逮捕された件などは論外だが、それこそ陸山会事件に起因した担当検事らの虚偽捜査報告書事件やこれに対する最高検のデタラメな対応など、その後の推移を見る限り、「検察の理念」は浸透し切っておらず、これに沿った真の検察改革も進んでいないと言わざるを得ない。
むしろ、時の経過とともに、検察が再び証拠や事実に対する誠実さや、強大な権力に対する謙虚さを失いつつあるように思えてならない。
警察の不祥事に目を向けても、大阪・堺警察署の組織的な調書ねつ造・偽証事件など枚挙にいとまがないが、やはりこれらに対する検察の対応は身内に甘いものとなっている。
証拠改ざん・犯人隠避事件の根底にあった検察独特の発想
そもそも、証拠改ざん・犯人隠避事件の根底には、検察にとって不利な証拠や事実を検察の領域から出すなどし、組織的に隠ぺいすることで、公判の紛糾を避け、迅速かつ強固な有罪判決を得たいとの検察独特の発想があった。
しかし、そうした心情は特捜部や大阪地検に限った話ではなかった。立証責任を負担し、無罪判決などの問題判決が出るとマスコミを含めて組織内外で厳しい非難にさらされる検察官にとって、誰でも抱く考え方と言える。
現に一般の刑事事件でも、公判の紛糾を避けるため、捜査段階で警察が作成した捜査報告書から被告人に有利となる記載を起訴後に削除させ、新たにバックデート、すなわち作成日付を捜査当時の過去の日付に遡らせて作成させた書面と差し替える、といったケースも見られた。
被疑者や参考人(被害者、目撃者、関係者など)に対する取調べの中で捜査当局の見立てに沿わない事実や被疑者に有利となる事実を供述調書の記載から落とす一方、有罪立証に向けてプラスとなる事実のみを「つまみ食い」して残すといったやり方も、全く同じ発想に基づく。
公判に向け選別される証拠、「証拠は誰のものか」
また、検察では、仮に10の証拠のうち7つまでが有罪を基礎づける証拠で、残り3つが被告人に有利となり、あるいは事実認定や情状面で公判紛糾の原因となる証拠だった場合、この3つを自ら進んで公判に提出するといった馬鹿なことはしない。
2005年から第1回公判前に争点整理などを行う公判前整理手続制度が導入されたが、それ以前の検察は、被告・弁護側の証拠開示請求に対して真摯に応じず、手の内を明かさないようにしてきた。
公判前整理手続制度が導入された後も、大部分の事件ではこの手続が実施されておらず、検察にとって害にならない証拠を小出しに開示する程度で、基本的な姿勢は2005年以前と変わらなかった。
むしろ、法律が定める開示要件を充たさないなどと理屈を並べ立て、ダラダラと手続を引き伸ばし、極力手の内をさらさないようにしてきた。
検察がいくつかの証拠を任意に開示すれば、早く裁判を始めたい裁判所も弁護人に対して「もうこのあたりでいいのでは」などと述べ、折れるように説得してくれるからだ。
元を正せば、「我々の手の内にある証拠は我々のもの」「被告人や弁護人には好意で見せてやっているだけ」「事件に関する情報コントロールは我々が主導して行う」といった根強い意識が問題の根底にある。
捜査の過程で判明した事件関係者の供述内容などをマスコミにリークし、広く報道させている事実からも明らかだろう。現に最近でも、甘利明前経済再生担当相の現金授受問題において、捜査上の秘密であるはずの関係者の処分内容や証拠上の難点などが「検察幹部」なる者によって処分前にマスコミに漏らされ、既成事実として大々的に報じられた。
こうした姿勢は警察も同様だ。いや、むしろ検察以上に「証拠は我々のもの」という意識が強いように思う。警察が捜査によって判明した事実(及びそれをまとめた供述調書や捜査報告書など)を全て検察に送ってこない、という事態もままあったからだ。
期待された抜本的改革の2つの柱
このように、密室である取調べ室で関係者から得た供述や当局にとってプラスとなる証拠物を金科玉条のものとし、いったん組み立てた事件のストーリーに組織を挙げて固執し、不都合な事実や証拠に目をつぶり、あるいはできる限り表に出さないように努め、他方で当局にとって都合の良い捜査情報をリークし、報道させることでマスコミをもコントロールし、「起訴=有罪」という風を吹かせ、有罪獲得に向けて猛進するという姿勢こそが、諸悪の根源だった。
この姿勢はあらゆる事件に当てはまるもので、長年にわたって蓄積されてきた刑事司法制度の歪みとも言える。そのため、こうした事態を根底から正し、えん罪防止に向けた抜本的改革の柱として期待されたのが、次の2点だった。
(1) 検察の手中にある全ての証拠を起訴後速やかに被告・弁護側にオープンにし、その手の内をさらすことで、プラス・マイナスを問わず、異なった立場から複眼的な視点で謙虚に証拠を見ようという「全面証拠開示制度」の導入
(2) 取調べ室で被疑者に虚偽自白を強いることを防止し、併せて被疑者以外の全ての関係者の供述経過を逐一記録として残すことで、後日の検証に耐えられるようにするという「全面可視化(録音録画)制度」の導入
特に(1)の全面証拠開示制度は極めて効果的であり、不可欠なものだった。事後的とは言え、外部、とりわけ相手方である被告・弁護側に対して彼らに有利となり得る証拠を入手・検討する余地を与えることになるからだ。
外部のチェックが入ることで、マイナス証拠の存在を隠せなくなり、捜査段階で積極・消極いずれの証拠も十二分に検討し、問題があれば必ず上司らに報告するといった姿勢にもつながる。
全く同じ証拠でも、違った立場や角度から見ることで、違った姿、違った事実を浮かび上がらせることができるからだ。
「検察官は全ての関連証拠を被告に開示する法的義務がある。検察官の手中にある捜査の成果は、有罪獲得のための検察官の財産ではなく、正義がなされることを確保するために用いられる公共の財産(the property of the public)である」
これは、1991年にカナダの最高裁が検察官に対して手持ち証拠の全面証拠開示義務を認めた有名な「スティンチコム判決」の一節だが、刑事司法制度における証拠の位置づけを端的にわかりやすく説明している。
見送られてしまった全面証拠開示制度
にもかかわらず、改革に向けた議論はもっぱら取調べの可視化と司法取引の是非に集中してしまった。
不都合な証拠や事実を隠すという悪弊の末に起きた証拠改ざん・犯人隠避事件の反省から制度改革を行うということであれば、何よりも真っ先に全面証拠開示制度を導入すべき、という話になるはずだったが、残念ながらその議論は深まらなかった。
改革を求める側がその要求を全面証拠開示制度1本に絞らず、むしろ可視化実現の方を前に出し、これを目的化してしまい、議論が拡散してしまったことも一因だ。
刑事司法制度改革に向けた叩き台づくりは、法務省特別部会において、様々な利害関係者の綱引きを背景とし、特にできるだけ現状を変えずに新たな武器だけは欲しいという警察や法務検察、これを応援する学者らのリードで進められていた。
当然の展開として、捜査当局の側からは、「可視化すると関係者から供述を得にくくなり、真相解明が進まず、治安も悪化する」と言い返された。
その上で、“バーター”として司法取引制度の導入や通信傍受(盗聴)の拡大といった、およそ証拠改ざん・犯人隠避事件とは何の関係もなく、しかも意見が多岐に分かれる難しい土俵に引きずり込まれることとなってしまった。
この結果、検察の手の内にある証拠の一覧表(リスト)を被告・弁護側の請求に基づいて開示することまでは義務付けられたものの、証拠の現物そのものをオープンにするという全面証拠開示制度の導入は見送られた。
しかも、開示義務付けの対象は、事実関係に争いがあるなどの理由から、公判前整理手続など争点を明確にするための手続に移された事件だけに限定された。
しかし、一覧表といっても、供述調書や捜査報告書といった書面であれば、単に作成日や作成者名、官職名、取調べを受けた供述者名などが羅列されているだけだし、証拠物も、「ハードディスク 3点」「紙ファイル 5点」などと、その品名と数量が記載されているだけだ。
これでは、それぞれの証拠の内容、例えば「X」という人物の供述調書にどのようなことが書かれているのかといったことを想像するほかないし、特に証拠物だとその想像すら不可能だ。せめて各証拠ごとに、内容をコンパクトにまとめた要旨の記載を義務付けるべきではなかったか。
過去の事件の蒸し返しを恐れる捜査当局
では、なぜ捜査当局は全面証拠開示制度に徹底抗戦するのか。表向きの理由としては、新たな弁解の構築や口裏合わせ、証人に対する脅迫、関係者のプライバシー侵害などに対する懸念が挙げられている。しかし、それらは建前にすぎない。
本音の部分で最も懸念しているのは、現在進行中ないし将来の事件に対する影響ではなく、既に判決が確定し、刑の執行や服役まで終わり、あるいは現在も服役中といった過去の事件まで蒸し返され、法的安定性が損なわれるのではないかという点だ。
取調べの可視化のように「これからの事件」を対象とした制度改革と異なり、全面証拠開示制度だけは過去の事件にまで広く影響が及ぶからだ。
例えば、歴史的な再審開始決定に対して検察が直ちに抗告を申し立てた袴田事件でも、再審請求審では、静岡地裁の勧告で検察から約600点にも上る証拠開示が行われた。
その結果、真犯人が履いたものだとされるズボンの「B」という表記は、死刑判決を下した裁判所が認定する“サイズ”ではなく、“布地の色”を示すもので、もともとY体(細身用)のズボンであって、袴田氏には履けないものだったといった、検察にとってマイナスに傾く様々な事実が明るみに出た。
高裁で審理が続いているが、なかったはずの衣類のネガや取調べ録音テープが警察の手の内で隠されていた事実も明らかになっているし、警察が袴田氏と弁護人との接見を盗聴録音したと思われるテープの存在までもが明るみに出ている。
こうした過去の蒸し返しこそが、捜査当局の最も恐れる事態にほかならない。
ごく一部にとどまった可視化義務付け
取調べの可視化も、本質的には「捜査の結果判明した事実や証拠は誰のものか」という証拠開示の議論と重なる話だ。
その意味で、本来は在宅・身柄拘束段階を問わず、被疑者・参考人を問わず、検察が公判前に証人と打ち合わせる手続や裁判官による勾留質問をも含め、およそ事情聴取の形式をとる手続では、全面的な可視化を原則とすべきだった。
しかし、今回の改正法では、逮捕勾留された被疑者の取調べの全ての過程を録音録画して記録に残すことまでは義務付けられたものの、逮捕に至っていない在宅段階での取調べ(事件捜査の大半を占める「書類送検」のケースを含む)や、被疑者以外の参考人の取調べは除外された。
しかも、義務付けの対象は、裁判員裁判が行われる殺人や傷害致死といった重大事件のほか、特捜部のように検察が警察を使わず自ら独自に捜査を行う事件だけに限定された。
これらは全事件の3%にすぎず、いずれも既に捜査当局において全面可視化が試行されているものばかりだし、先に挙げたPC遠隔操作事件などは対象外となるわけで、現状を大きく変えるものではない。
また、可視化が義務付けられた事件であっても、被疑者が十分な供述をし得ない場合などには、捜査官の判断で録音録画の見送りを可能とする例外規定も置かれ、運用次第では「ザル法」ともなる。
現に逮捕勾留された被疑者のうち、2015年度中に警察が取調べの全ての過程を録音録画した件数は、裁判員裁判対象事件全体の約48%にすぎない。機材不足という事情もあるが、被疑者から供述を得にくくなるといった理由から、捜査官が全面可視化を実施しようとしなかったことも原因だ。
2014年度がわずか17%だったことと比べると大幅に増加してはいるが、完全実施が当たり前でなければならない。
捜査当局が可視化に抵抗感を抱く背景
では、なぜ捜査当局は取調べの可視化に抵抗感を抱くのか。この点は、取調べをガラス張りにすることで供述を渋る関係者が出てくるといった理由が挙げられている。
しかし、むしろ懸念されているのは、取調べを担当する捜査官の方がカメラを意識しすぎ、言葉尻を捉えられて批判されることをおそれ、萎縮し、形だけの深みがない取調べになってしまうのではないか、という点だ。
また、本音の部分では、全てではないにしても、取調べ室の中で第三者に見せられないようなやりとりが現に行われている面もあるからだ。例えば、机を叩いて大声で怒鳴ったり、捜査官が把握している事実の方に巧みに誘導するといったものだ。
余罪の立件見送りや早期保釈、求刑の軽重などをチラつかせ、被疑者を「あきらめ」の心境に陥らせるとともに損得計算をさせ、共犯者の関与状況などを含めて事件の全貌(らしきもの)を語らせ、これを供述調書に記録してサインさせるといったやり方もある。
発想の転換、可視化は被疑者だけでなく捜査官も守る
ただし、先に挙げた全面証拠開示制度と比べると、捜査当局も可視化についてはやや前向きな姿勢に変わりつつある。
すなわち、もともと可視化は警察や検察を縛るためのものであり、可視化が叫ばれ始めた当初も、そうした狙いがあった。しかし、可視化の流れが避けられないことを悟った捜査当局は、むしろこれをより強固な有罪立証のための“有効な武器”として使おうと、発想の転換を図った。
2014年には、最高検も、各高検や地検に対し、被疑者を逮捕する事件全般に可視化試行の対象を広げ、供述調書の任意性・信用性が裁判で争いになりそうな場合には録音録画を実施すべし、といった通知を出すに至っている。
改正法で可視化が義務付けられなかった事件の取調べでも録音録画を行うこと自体は可能であり、いつ、誰の、どのような取調べについて、どのタイミングで、どの部分を切り取って記録化し、それをどのような目的で使うのかといったことについては、全て捜査当局の広範な裁量に委ねられているからだ。
可視化は被疑者を守るだけでなく、取調べを担当する捜査官を守ることにもなる。「捜査官の作文だ」と揶揄(やゆ)されてきた供述調書に代え、あるいは被告人が法廷で捜査段階と異なる供述を始めた事案などについて、取調べ室でのナマの供述内容や態度、表情、口ぶりなどを客観的に証明する動かぬ証拠として、録音録画を積極的に使っていこうというわけだ(これを「実質証拠としての利用」と呼ぶ)。
記憶に新しい栃木女児殺害事件でも、検察は禁断の「Nシステム」まで証拠として使わざるを得ないほど追い込まれた状況だったが、捜査段階における被告人の自白状況を記録した録音録画が決め手となり、一審で有罪を得ることができた。
一番最初に自白した場面が全く記録されていない上、法廷に出された録音録画はごく一部であり、記録された検事の取調べは相当強引で誘導も目立ち、しかも自白と現場や遺体の状況には食い違いがあるなど、この事件の捜査には問題点も多々あった。
それでも、裁判官は自白調書を証拠から排除せず、裁判員らも有罪という方向で検察を救済しており、録音録画が捜査当局の武器にもなるという事実を改めて示した。
「自白は証拠の王」と言われる。取調べや自白調書への過度の依存から脱却するための刑事司法制度改革だったが、可視化により得られた録音録画の使い方次第で、かえって自白に価値が置かれる結果となってしまっているのは皮肉な話だ。
司法取引という捜査当局の「新たな武器」
むしろ、今回の改正法を見ると、捜査当局の手足を縛るはずが、かえって権限拡大に繋がるような「焼け太り」の状態になっているように思える。その一つが、司法取引という新しい制度の導入だ。
この制度にも様々なパターンがあるが、改正法では、検察官と被疑者・被告人側が交渉をし、組織の幹部など共犯者の関与状況に関する供述をしたり、物証を提供するなど協力者となった場合、その見返りとして不起訴や求刑引下げ、起訴取消しなどを行うといった「合意制度」が採用されている。
取引に応じる被疑者・被告人の弁護人と検察官とが合意をし、合意書を作成することが条件だ。窃盗や強盗、殺人や強姦といった事件は対象外だが、贈収賄や談合、脱税、詐欺、横領といった財政経済事件や、薬物事件、銃器事件は取引の対象となっている。
ただ、検察では、司法取引を決するに際し、間違いなく地検、高検、最高検と何重もの幹部決裁を要するはずであり、とりわけ制度開始からしばらくの間は絶対に失敗が許されないので、起訴取消し並みの慎重さが要求されるだろう。
諸外国のように現場の検察官だけの判断でフットワーク軽く使えず、むしろ「武器」どころか「重すぎて抜くに抜けない刀」に成り下がる可能性もある。取調べの全面可視化が導入されていない以上、今までどおり密室の取調べ室で利益供与をほのめかし、供述を得たほうが手軽だからだ。
えん罪の温床にもなり得る、リスク高い司法取引
こうした司法取引制度にはメリットもあるが、デメリットも多い。刑事責任を軽くするため、自分の行為を共犯者がやったことだと嘘をついたり、全く無関係の者に罪を被せて引きずり込むなど、えん罪の温床ともなり得るからだ。
また、最初に司法取引に応じた者の供述によって事件のストーリーが組み立てられ、固められるので、かえって流動的な捜査がしにくくなるし、真相から遠くなるおそれもある。
そればかりか、弁護人はろくに証拠を見ていない段階であるにもかかわらず、依頼者が求めている以上、依頼者の利益のために取引に同意するというリスクを負うことになる。取調べの全面可視化による取引過程の透明化すら全く図られていないにもかかわらずだ。
もしこの依頼者の証言が事実に反するものであれば、司法取引に同意した弁護人もえん罪被害者らから攻撃される結果となる。これはかなり危うい話だ。
法務省特別部会のメンバーになっていた日弁連などの委員は、最終的には一部可視化実現の見返りとしてこの「毒」を飲んだが、本来はこうした司法取引制度の話が出てきた段階で会議の席を立つという勇断も求められた。
このあたりは、日弁連と各地の弁護士会との間に微妙な温度差があった点だ。やはり、当初から最終的な着地点を見据えた上で、委員の人選や議題設定、議事進行を進めてきた法務検察官僚の方が、一枚も二枚も上手だった。
刑事司法制度改革の今後、重要なのは裁判所の意識改革
本来であれば、全面証拠開示や取調べの可視化、司法取引の導入など、それぞれ完全に切り分け、全く独立して別個に議論すべきテーマだった。
にもかかわらず、2020年のオリンピック・パラリンピック東京大会の開催に向け、2013年に閣議決定された「世界一安全な日本」創造戦略が最優先された結果、治安維持の観点から、各制度を一体のものとして整備する、という方針が既定路線となってしまった。
これも、証拠改ざん・犯人隠避事件への反省から捜査当局を縛ろうとしたはずの改革議論の原点を忘れ、改革が中途半端な形で終わることになった大きな要因と言える。
もちろん、今回の改革はあくまで最低ラインにすぎず、今後の運用で証拠開示や可視化の範囲が拡大していくことを期待したい。特に裁判所の意識が変わることが重要だ。
例えば、袴田事件のように死刑再審請求事件を契機として証拠開示の範囲が広がっていくことが考えられるが、これも結局のところ、検察に証拠開示の勧告や命令を出す裁判所の対応次第だ。
同様に、裁判所が取調べの録音録画を当然のこととして捉え、もし可視化が行われていなければ供述の任意性や信用性に疑念を持つといった強い態度に出れば、可視化の範囲も自ずと広がっていくことだろう。
他方で、今後は捜査当局の権限拡大も一層進められるはずだ。1999年に「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」が制定された際、通信の秘密やプライバシー保護との調整を図るため、捜査当局が電話等の通信傍受(盗聴)を行うことに対し、厳しい縛りがかけられた。
しかし、今回の改正法では、いとも簡単に対象犯罪が広げられ、電話会社社員らによる立会いも一定の条件の下で不要となるなど、捜査当局にとって一層使い勝手のよいものに変更された。
今回導入された司法取引制度も、いずれもっと捜査当局にとって使いやすい形に改められることは間違いないだろう。
議論の発端となった張本人として
7年前、僕は何よりも法と証拠を重視すべきプロの法律家である検察官として、絶対にやってはならない罪を犯した。事実や証拠に対する謙虚さを欠いた卑劣な行いであり、検察官である前に一人の人間としても、万死に値する。
人生を狂わせてしまった厚労省担当課の元課長やそのご家族をはじめ、郵便不正事件に関わった全ての関係者の皆さまに対し、衷心より深くお詫び申し上げます。
その後、古巣である検察は、抜本的な改革を目指して「検察の理念」を策定したが、冒頭で述べたとおり、なおも信じがたい不祥事が続発している。権限行使の在り方も、公平さや公正さを欠き、独善に陥っており、今やその崇高な理念も時の経過とともに空文と化しつつある。
これでは、いつかどこかで、様々な重圧を受けた検察官らが、再び全く違った形で、同じような過ちを犯すに違いない。
改めて多くの方々に刑事司法制度改革の原点が何だったのかを思い起こしていただくためにも、また、警察・検察を問わず僕のような人間を二度と出さないようにしていただくためにも、中途半端な改革で終わった現状を踏まえ、今回、恥を忍んでこの問題を語る意義は大きいのではないかと思い至った次第だ。
刑事司法制度の「あるべき姿」とは何か――。証拠開示や取調べの可視化、司法取引など、あくまで方法論にしかすぎない。制度改革にあたっては、各制度のメリットやデメリットを踏まえ、わが国におけるこれからの刑事司法制度の「あるべき姿」まで見据えた議論を行う必要がある。
結局のところ、その方向性を決めるのは、熱心に活動する一部の法曹関係者や学者、ジャーナリストではなく、読者を含めた国民一人ひとりにほかならない。刑事司法制度は、地味だが国民の生活に重大な影響を与えるものだし、何よりも国民のためにあるものだから。(了)