「決勝ボレーで家を建てた」アジア杯優勝から10年、元日本代表FW李忠成の今
2011年1月29日、カタール・ドーハで行われたアジアカップ決勝・オーストラリア戦。120分間に及ぶ死闘に決着をつけたのは、ジョーカー・李忠成(京都)だった。劇的かつ華麗なスーパーボレー弾が生まれた歴史的一戦は深夜にもかかわらず視聴率33・1%を記録した。
「絶対にヒーローになるんだ」
大会を通してほぼベンチに陣取っていた男は、つねに自分を奮い立たせ、自らのサッカー人生を大きく変えた。血気盛んな仲間との刺激に満ちた10年前の日々と自身のキャリアを今、改めて彼に語ってもらった。
ギリギリの状況で送り出されたジョーカー
2010年南アフリカワールドカップ(W杯)16強入りから半年。アルベルト・ザッケローニ監督が就任し、日本は初めての大舞台であるアジアカップに向かっていた。当時所属のサンフレッチェ広島でゴールラッシュを見せ、大会メンバーにギリギリで滑り込んだのが李だった。しかし、初戦・ヨルダン戦の後半から出場しただけで出番がなく、お呼びがかかったのが決勝の延長前半8分。0-0のスコアレスの状況でピッチに送り出されたのだ。
――決勝前の心境は?
「自分にはチャンスが必ず来ると信じていたし、『ヒーローになる』と思い続けていました」
――決勝点のシーンは?
「練習中から(長友)佑都やウッチー(内田篤人)に『ニアに飛び込むから速いボールを感覚で蹴ってくれ』と要求してました。あの時も1回ニアに行って、マークを引き離して、バックしてフリーになった瞬間に最高のボールが来た。がら空きに見えるかもしれないけど、駆け引きした結果のゴールでした」
――試合後、「ホント人生は怖いな。紙一重だな」と発言していましたね。
「あの状況で運をつかむのは、自分を信じ切れるかだと思うんです。『俺がこの試合を決めてやるから0-0で来い』っていう気持ちでいたし、呼ばれた時は『やっと来たか』と。少しでもネガティブな感情があると大舞台では食われるんで、『俺がスーパーヒーローになるのは決まってる』と自分を洗脳させるくらいの感じでした。あのゴールのおかげで年俸も上がったし、親に家を建ててあげられた(笑)。人生が大きく変わりました」
「サッカー観が変わった」本田、長友らからの刺激
同大会の主力は李と同じ2008年北京五輪代表。本田圭佑、長友、岡崎慎司(ウエスカ)、内田、香川真司、吉田麻也(サンプドリア)は五輪でともに惨敗を経験した盟友。彼らが南アで結果を出し、欧州で急成長を遂げている姿に刺激を受け、「自分も負けてられない」と鼻息は荒かった。
――アジアカップ当時の代表の雰囲気は?
「みんなギラギラでしたよ。北京世代は『俺が俺が』っていう個性の強い人間が揃ってて、国際大会に参加するたびに『世界のスカウトの目に留まってやる』って意識でいたんです。五輪は結果的にチームがバラバラになり、1試合も勝てずに終わったけど、南アでベスト16に入って『もっと上を見たい』ってすごい向上心を抱いたと思うんです。圭佑や佑都は『W杯で優勝するためにはどうしたらいいのか』と本気で考えていたし、アジアで優勝しても世界で20番目か30番目。だから優勝は当たり前って感覚だった。彼らのマインドには学ぶところが多かったです」
――大会中にそういう話をしたんですか?
「食事中とかに『これじゃあ世界で戦えないよ』って話はいつもしてました。冷静に考えたら『世界一なんてムリだろ』と思うかもしれないけど、みんな1ミリも思っていなかった。圭佑や佑都、ウッチーは『世界一から逆算してどうするか』を考えていたんです。自分もサッカー観が変わりましたね」
――当時は香川選手筆頭に欧州で活躍している選手が多くて勢いがありました。
「僕は今まで一緒にサッカーやった中で一番うまいのが香川真司だといつも言うんですけど、あの時の真司は別格でしたね。プレーの質が違ったし、トラップしても前に行けるし、間違いなく真のトップスター。世界トップレベルの選手だったと思いますよ」
――代表でそれ以外に驚いた選手は?
「アジアカップの時じゃないけど、(中村)憲剛さんとヤット(遠藤保仁=磐田)さんのダブルボランチですね。マジでボール取れなかった(苦笑)。2人は技術が高いだけじゃなくて、本当に頭がよかった。あれはもう超越してますね。憲剛さんもヤットさんも日本一のチームを作ったじゃないですか。超一流の選手っていうのは周りに影響をもたらせる存在。ジーコやドゥンガもそう。彼らがいたチームは王者になってますし、サッカーを教えてもらえる。僕自身もそうでしたね」
強烈アピールでつかみ取ったイングランド移籍
2011年のJリーグで32試合出場15ゴールという目覚ましい数字を残した李は長年の夢だった欧州挑戦を実現させる。複数のオファーの中から選んだのは、イングランド・チャンピオンシップ(当時2部)のサウサンプトン。最高峰リーグへ上り詰めるチームと一緒に、自らもストライカーとして高い領域に到達したいと考えて、下した選択だった。
――オファーはどのくらいあったんですか?
「正式なオファーはサウサンプトン入れて3つかな。ドイツの1部・2部のクラブもありましたけど、やっぱりイングランドだなと。あの時のサウサンプトンはチャンピオンシップの1位か2位でしたけど、そこで試合に出てプレミアリーグに昇格させるというシナリオが最高だと考えたんです。それにW杯で優勝する目標を見据えた時、日本代表の1トップを張ってる選手はプレミアリーグで活躍してなきゃいけない。逆に活躍できないんだったら、W杯に行く意味がないとさえ感じた。みんなと同じで『日本を優勝させるためには…』っていう逆算でしか、物事を考えてなかったですね」
――2012年1月に新天地に赴きましたが、3月に右足靭帯を損傷しました。
「ケガをするのも実力。『勝負は紙一重』ってアジアカップの時も思ったけど、あれも何かの意味があったのかな……。ケガが癒えた後もうまくいかなかった。もし活躍できていたら、2014年ブラジルW杯の1トップをやっていた可能性はありましたね。結局、落選したけど、メンバー発表の3日前くらいにザックさんから『今回選べなかった。申し訳ない』という電話をもらった。それはそれで嬉しかったですね」
35歳の今「アンパンマンでいたい」の意味
日本復帰後、2014年1月から5年間プレーした浦和レッズでは、2016年YBCルヴァンカップ決勝で貴重な得点を叩き出し、タイトルとMVPを獲得。2017年ACL制覇、2018年天皇杯優勝など充実したキャリアを送った。その後、横浜F・マリノスを経て、2020年から京都サンガでプレー。35歳になった今、プロ18年目のシーズンに挑もうとしている。
――現役生活が終わりに近づいている印象はありますか?
「俺、33歳過ぎたら“大往生”だと思うんです。契約満了だろうが何だろうが、そこまでやれれば大成功。18歳から数えて15年続けたんだから、相当すごいことですよ。30歳を過ぎてから浦和で(興梠)慎三と一緒にやれたのも大きかった。フォワードは水物だから外国人選手を取ってこれるじゃないですか。でも俺らはそれをさせなかった。そこは誇りに感じてます」
――興梠選手と同い年の岡崎選手もまだ海外でやっていますね。
「オカちゃんは希望ですよね。サッカー下手なやつでも思考力ひとつであそこまで行けるんだから、誰でも行けますよ(笑)。オカや圭佑、佑都はホントに毎日サッカーのことを考え抜いたんじゃないかな。誰でも可能性があるってことを彼らから学んでほしいです」
――そういう中で李選手は何を目指します?
「今の自分がやるべきなのは、全試合に出ることじゃない。1つ1つやるべきことを的確に遂行していくことなんですよ。そうすれば10点、20点取るのは夢じゃない。たぶん、李忠成は最後に何かを持ってるんで、できると思いますよ」
――最後に李忠成という男はどうありたい?
「つねに『アンパンマン』でいたい。サッカーを通して自分に関わった全ての人に幸せになってほしいからです。そのためには元気や勇気、希望を分け与えないといけない。自分の顔がいつも真ん丸でいることが大事なんです」
年を重ねても向上心と前向きさは変わらない。それが李忠成という男だ。チョウ・キジェ新体制になった2021年、本気でJ1昇格へチャレンジする京都に、この強靭なメンタリティと豊富な経験値は欠かせない。彼には残されたサッカー人生で持てる力の全てを出し切り、完全燃焼してほしいものだ。
■李忠成(り・ただなり)
1985年12月19日生まれ。東京都出身。2004年にFC東京U-18からトップチーム昇格を果たす。その後は柏レイソル、サンフレッチェ広島でプレー。2012年からイングランドのサウサンプトンに移籍。帰国後の2014年からは浦和レッズ、横浜F・マリノスと渡り歩き、2020年から京都サンガに所属。日本代表では2008年に北京オリンピック出場。2011年のアジアカップ決勝・豪州戦では劇的な決勝ゴールを決めて、日本をアジア王者に導いた。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】