【九州三国志】忠臣、猿を斬り舞を踊らせて主君を諫む!道雪、厳しくも情ある統率で人心を掌握す
立花道雪ほどの忠臣が他にいたでしょうか。
ある日、大友宗麟が猿を家臣にけしかける悪ふざけを繰り返していると、道雪は宗麟の前に進み出て、その猿を鉄扇で一撃のもとに仕留めました。
そして「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と静かに諫めたのです。
この一言に、宗麟は己の愚行を深く恥じ入ったといいます。
また、宗麟が酒と女に溺れ、国政を顧みない日々が続いたとき、道雪は京都から踊り子を呼び寄せ、自らの屋敷で日夜踊らせました。
道雪がそのような行いをするとは思いもよらなかった宗麟が訪ねてくると、ようやく拝謁を果たし、「我が身を省みず、主人の過ちを正すのが臣下の務め」と、魂のこもった諫言を述べたのです。
この毅然とした態度が宗麟の心を打ち、その後も宗麟は道雪の忠告を聞き入れるようになったといいます。
今日も大分に残る「鶴崎踊り」は、このとき道雪が用いた踊りが起源とされています。
道雪は家臣への対応にも非凡でした。
彼は「武功の有無は運によるもの。だが、我が目は確かである」と語り、武功のない者にも励ましの言葉を惜しみませんでした。
また、失意の者には酒を酌み交わし、ときには武具を贈り、「次の戦いで挽回せよ」と期待を示しました。
こうした配慮が家臣の士気を高め、戦場では皆が命を惜しまず奮戦したのです。
一方で、軍律に関しては冷徹でした。
ある遠征中、陣を無断で離れて帰郷した家臣に追っ手を差し向け、その親すら同罪と断じました。
「親が息子を止めなければ、それもまた罪」という厳格な姿勢は、戦場における規律の重要性を何よりも物語っています。
道雪の指導は、ただ厳しいだけではなく、家臣の粗相すらも「戦場では百人分の働きをする者」としてかばい、恥をかかせませんでした。
密通の問題にも寛容であり、「若い者なら仕方ない」と笑い飛ばす一面も持ち合わせていました。
このような寛大さに感動した家臣が、戦場で命を懸けて道雪を守り戦死したという逸話も残っています。
道雪の側近であった薦野増時が「死後も道雪の隣に墓所を置きたい」と願い、それが許された話は、彼がいかに家臣に愛されていたかを示しています。
立花道雪の統率術は、厳しさと情の絶妙な調和によるものでした。
その生き方は、戦国時代の武将の理想像として、今も多くの人々に感銘を与え続けています。