韓国でまことしやかに流布される「戒厳令」の噂
日本と自由、民主主義の価値観を共有しているはずの韓国で今時、「戒厳令」話が俄かに持ち上がり、与野党間で大きな論争となっている。
事の発端は、野党第1党の「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン)代表が9月1日に与党「国民の力」の韓東勲(ハン・ドンフン)代表との党首会談の場で「最近、戒厳令(が発令される)という話が頻繁に出ている」と切り出したことにある。
李代表は「尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権が戒厳令の解除を国会が求めるのを阻止するため戒厳令の宣布と同時に国会議員を逮捕、拘禁することも計画しているとの情報も耳にしている」と、真顔で韓代表に語ったそうだ。
この李代表の発言に韓代表は即座には反応せず、翌2日になって「事実ならば深刻なことではないか。そのうちわかるというのではあまりにも無責任な話なので、李代表は今直ぐにその根拠を示すべきである。事実でなければ国の規律を乱す行為に当たる」と冷淡な対応を示し、李代表が求めた真相の究明や共同対処には応じなかった。
李代表から戒厳令を画策していると攻撃された尹政権の大統領室は「戒厳令発令説は怪談で、あり得ない話だ。野党の主張は政治攻勢以外の何物でもない」と一蹴したが、大統領室の否定にもかかわらずこの問題は各方面に波紋を広げている。
調べてみると、李代表の発言には布石があった。
同党所属の金炳周(キム・ビョンジュ)議員が先月19日に国会国防委員会で「尹大統領は弾劾されそうになれば、戒厳令を宣布するのでは」と、尹政権に釘を刺していた。金議員は国連軍(米韓連合軍)副司令官を務めたこともある元陸軍大将である。軍歴からして軍内に独自の情報筋を持っていることで知られている。
さらに2日後の21日には同じく国防委員の金民錫(キム・ミンソク)議員が「この度の金龍顯(キム・リョンヒョン)国防長官の任命は(北朝鮮との)局地戦と『北風』(北朝鮮の脅威)造成を念頭に置いた戒厳令準備のための作戦なのでは」と、尹大統領の国防・安保関連の人事を戒厳令と結び付けて質していた。
先月、尹大統領は突如、国防・安保人事を交代させていた。
安全保障室長に転出した申ウォンシク国防長官の後任に高校(沖岩高校)の1期先輩にあたる金龍顯を据えていたのだ。金次期国防長官は尹大統領の信頼が厚く、尹政権発足と同時に大統領警護処長として尹大統領を支えてきたタカ派将軍である。
すでに昨年11月には国軍防諜司令官に呂寅兄(ヨ・インヒョン)司令官(中将)を起用していたが、呂司令官もまた沖岩高校の出身で、尹大統領の後輩にあたる。国軍防諜司令部の前身は国軍保安司令部で、1979年に当時保安司令官だった全斗煥(チョン・ドファン)元大統領はクーデターを成功させている。
加えて、今年4月には国防部傘下777司令部の司令官に朴ジョンソン少将を昇進させているが、朴司令官もまた、沖岩高校の卒業生で尹大統領の後輩にあたる。777司令部は北朝鮮の情報収集を主な任務としている。
金次期国防長官は国防長官にまだ正式に任命されていないのに国防部に沖岩高校出身の李ジヌ首都防衛司令官をはじめ呂寅兄国軍防諜司令官、それに光州事件でデモ隊を鎮圧した特選団司令部の郭ジョングン司令官らを呼び寄せ、密議をしたことから野党のこうした不信を買ったようだ。
野党の主張は空騒ぎのようにも聞こえるが、朴槿恵(パク・クネ)政権時代の2017年2月に国軍機務司令部(現在の国軍防諜司令部)が朴大統領の弾劾を求める民衆の蝋燭デモを警察力では押さえられないとみて秘密裏に内乱陰謀を理由に戒厳令を検討し、そのための文書まで作成していたことから尹大統領も今後弾劾されるような状況になったら大統領の固有権限である戒厳令の布告に踏み切るのではと野党は疑心暗鬼となっているようだ。
当時の文書には朴槿恵大統領弾劾が棄却された場合は、軍が戦車などを動員してソウル光化門の蝋燭デモなどを鎮圧したうえで、国会が戒厳解除を試みた場合に議決定足数が満たされるのを防ぐため国会議員を逮捕・拘禁する計画が具体的に記されていた。
尹大統領は憲法第77条1項に基づき戦時、事変またはそれに準ずる国家非常事態において軍事力で応じることができる。公共の安寧秩序の維持のため必要な場合、法律の定めるところによって戒厳を宣布できる。また、非常戒厳は国家非常事態において行政機能と司法機能の遂行が顕著に困難な場合に宣布される。即ち、警備戒厳は一般行政機関では治安を確保できない場合に宣布される。
しかし、大統領が戒厳令を宣布しても憲法77条5項に従い、国会議員は国会在籍議員の過半数の賛成で戒厳令の解除を要求することができる。
現在、「共に民主党」を含む野党は定数300議席のうち192議席を持っているので尹政権が国会の解除要求を防ぐためには少なくとも42名の議員を逮捕、拘禁しなければならない。また、戒厳法には「戒厳施行中国会議員は現行犯を除外して逮捕及び拘禁されない」との規定があるので現実的には戒厳令を敷くには無理がある。
但し、戒厳令という極端な状況となった時には野党の反政府運動を不法とみなし、現憲法で逮捕することはあり得るし、国会議事堂を封鎖することもあり得る。
実際に1972年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領(当時)が10月に独裁体制を築くため維新憲法を設定した際、戒厳令を発令したが、この時は同時に国会を解散し、戒厳令解除の動きを防いでいた。また、1979年10月には全斗煥国軍司令官が戒厳令宣布と同時に国会を封鎖し、金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、金鍾泌(キム・ジョンピル)氏ら与野党の指導者らを抑え込み、国会での戒厳令解除を遮断したこともあった。
常識的に考えれば、現状では戒厳令の可能性は極めて低いが、それでもゼロとは断言できない。