将棋がファム・ファタールだと思ってた藤田麻衣子さん(元女流棋士)が連珠に出会ってA級に入るまで(1)
――いやあ、なんだかすごいですね! ただ、私は連珠のことはよくわかりません。そこで今日は「将棋のことはなんだかよくわからないけれど藤井聡太さんに下世話な質問をするインタビュアー」みたいな感じでいきたいと思います!
藤田「はーい(笑)」
――フリーライターの松本です。よろしくお願いします。連珠のA級ってどれぐらいすごいんですか? ぶっちゃけ、いくら儲かるんですか?
藤田「(待ってましたという感じで)えっ!その話、今日させてもらえるんだ? 連珠って公益社団法人なんだけど、プロ組織ではなくて、立場上はアマチュアなのね」
――アマチュアっていうのは、囲碁や将棋のプロとは違って、対局料や賞金が発生しないという意味ですね。プロの定義は簡単ではないですが、たとえば将棋だと、養成機関を優秀な成績で抜けた将棋専業の棋士、女流棋士というプロがいます。一方で連珠は、皆さんそれぞれの立場があって、競技に参加してるってことですね。
藤田「そう、アスリートに近いかな。ただ、中国はプロ化してて。チェスみたいにプロとアマチュアが一緒に棋戦に参加してます。上海棋院とか、地区ごとの棋院があって、そこに所属の選手がいて対抗戦やったり。政府が頭脳スポーツを奨励して支援したり企業も協賛したり手厚い環境で。たまに日本のA級棋士の人が中国に招待されて指導したりすることもあるみたい。そういう時中国では日本の将棋界みたいにちゃんとした先生として扱ってもらえる。でも日本では『連珠棋士』って言っても知名度がないじゃない? だから連珠棋士の地位を高めたくて、まずはスポンサーがちょっとでもあるといいなと思ってて、自分が連珠がんばってる理由の一つに、知名度をあげたり、いい成績を残してスポンサーを探したいなっていうのがあります。そういうの書いといて!」
――ふざけた質問で始めて失礼しましたが、怒涛のように一気に、大変素晴らしい夢を語っていただきました。
藤田「それが一番言いたかったこと! 昔は本因坊と将棋の名人と連珠の名人が揃ってる写真もあったじゃん」
――本因坊秀哉名人(1874-1940)の引退碁の打ち始め式(1938年6月26日)ですね。対局場の芝公園・紅葉館に囲碁、将棋、そして連珠の名人が集まった様子が川端康成『名人』に書かれています。
――戦前は囲碁、将棋、そして連珠と3つの分野が並び称されたこともあったわけですね。
藤田「西日本新聞が棋戦を主催していたこともあったり。イベントでも任天堂がスポンサーになったりしてたんだけど。ここ十年、二十年ぐらい、海外ですごく連珠が盛んになったあたりから、日本では逆にかなり下火になって、スポンサーが全然つかずに、みんな手弁当でやってる」
――(Zoomの画面を見つめながら)ここまで絵に描いたような、早口のオタクみたいでした。
藤田「(顔色を変えて)ちょっ! 失礼なインタビュアーだね? あれなの? 吉田豪的なのを目指してる? 最初にジャブかまして素顔を語らせるみたいな?」
――いえいえ、失礼しました。もう圧倒されただけです。情報量が多すぎて、なかなか追いつけません。
藤田「連珠の人たち、純粋な公益社団法人なのよ。『寄付金だけでやってます』みたいな感じで。すごい楚々としてるから。私はガツガツしてるわけよ、わりと。『スポンサー探せばいいじゃん!』みたいな感じで」
――将棋界もずっと苦しい時代が続いてきて、一時の好況をのぞけば、昭和の半ばまでは基本的にずっと貧しかったらしいです。先人はそうした時代のことを切々と書き残しています。それを思うと、藤井ブームに沸く現代の将棋界は夢みたいな状況かもしれません。どんな分野でも経済的に恵まれない時代を支えた有名、無名の人たちは素晴らしいと思います。連珠界の皆さんもいま、ほぼ無償の愛でやってるわけですね」
藤田「そう、純粋なの!」
――えーと、順をたどってうかがっていいですか?まずは藤田さん、旧姓・比江嶋さんが、将棋界でどういう足跡を残してきたかというところから始めましょう。藤田さんは異例の晩学組なんですよね。
藤田「21歳、大学3年の時に将棋に出会って『これだっ!』って思っちゃって。大学の最寄り駅まで校舎から全速力で走って。(将棋会館のある)千駄ヶ谷に行きたいばっかりに。『私はプロを目指すんだ!』って、ルール覚えた翌日からわけのわからないことを言い出したんですよ」
――一般的な親御さんだったら、全力で娘を止めるところかもしれませんね。
藤田「親もそれを聞いた時に『なに言ってんだ?』って思ったから、特にツッコミもしなかったんだよ。あまりにも突拍子がないから」
――でしょうね。
藤田「でもその時に『私は絶対なるんだ!』って思ったから、一年半ぐらいでプロになれたんだよ」
――当時の女流育成会を抜けてですね。それもまた素晴らしいことです。
藤田「連珠とけっこうかぶるでしょ?」
――確かにそうですね。
藤田「強くなるのはけっこう速かったんだよね。でもプロになってからはすごく低迷して。職業としての女流棋士は適性がなかったんだよね。結局一番よかった成績が(2003年度、予選で3連勝して)女流王将戦の本戦入り。女流1級に昇級できたんだけど、それで終わって。毎年ほとんど予選で1、2回戦負けっていう成績で、6棋戦か7棋戦ぐらいしかなかったから、年間10局以下で過ごすっていう生活を続けてた。最初は塾講師のアルバイトして、対局料だけじゃ生活できないからさ。だけどある日『これをやってても将棋になんにもつながんないな。すべて将棋関係の仕事で稼ごう』と思って辞めて。稼ぐっていっても、目標月15万だからね。それでいろんなバイトをしたんですよ。たとえば将棋ソフトの苦情受付の電話応対とか。本の校正とか。将棋に関わるいろいろなことをやって。もともと私、器用な方だったから」
――それはもう、見るからに器用でしたね。
藤田「人のために役立つ仕事とか好きな方だし。そんなこんなやってるうちに、観戦記とか、原稿を書く仕事とか、お兄さん(松本)に『明日空いてる? 空いてたら順位戦中継して』みたいな。ずいぶん、カジュアルに頼んできたよね。『あ、残念ながら空いてるわ』って感じでうっかり中継記者になったりとか。そういうスキマ仕事をいっぱい積み重ねて。そうこうするうちに、どうぶつしょうぎをデザインしたり。でもやってることはバラバラだけど、将棋の魅力を世に知らしめるためという意味では一貫してた。プロ棋士の一つの使命でしょ、それって。里見香奈さん(現女流四冠)はトーナメントに打ち込む姿で将棋の魅力を伝える。一方、底辺の藤田麻衣子さんはあの手この手で、時には(どうぶつしょうぎの)らいおんを描き、時には中継記者として棋譜を入力し、対局室で写真を撮り。ありとあらゆることをして、将棋の魅力を世に伝えようとしていたわけです。そしたら私が子どもを産んでる間に、女流棋界が分裂して。(中略)これさあ、面白いからYouTubeに流そうぜ。ノーカット版を」
――それは無理ですね(苦笑)。できるだけ文字起こしはしますけど。で、藤田さんはLPSA(日本女子プロ将棋協会)に所属して。
藤田「まあ成績も毎年ぱっとしない感じだったんだよね。『連珠世界』(公益社団法人・日本連珠社の機関誌)にも書いたんだけど、引退を決意した対局っていうのがあって。(2009年11月に)山口恵梨子ちゃん(現女流二段)と対局したんだよね。で、あっさり負けて。その時『一日無駄にしたな』って思っちゃったの。この時間があったら『駒込の(LPSAの)事務所でどんだけの仕事ができたんだろう。もっとやりたいこといっぱいあったのに』って思ったのね。将棋を指した日にそんなことを考えたのが初めてだったのよ。それで『今日をもって私は辞めることを決意しよう』と思ったの。それが秋ぐらいで。(年明けの)3月で辞めようと決めた。将棋って負けが込むと、どんどんわるいイメージが積み重なって、対局すること自体が前向きな気持ちになれなかったりするじゃん。だけど辞めると決めた後は何も怖くなくなったのね。『最後だし好きな戦法を指そうかな』みたいな感じでやってたら、最後だけ将棋の調子がよくて。(2010年1月)LPSA主催のペア将棋選手権で鈴木貴幸さん(アマ強豪)と組んで優勝したんだよ。中井さん(広恵女流六段)たちに勝って。それが私の唯一の優勝記録」
藤田「(2010年3月)最後のけやきカップ(1dayトーナメント)が準優勝だった。最後にそうやっていい成績で終われたから。降級点取って去るより(規定では成績下位者に降級点がつけられ、それが積み重なると引退)私としては、すごくいい終わり方だったんだよね。・・・話、長いよね?」
――いえいえ。寡黙な人よりは饒舌な人の方が、インタビュアーとしては助かります。そういうわけで、将棋のプレイヤーとしては、納得する形で辞めたんですね。
藤田「そうですそうです。それでそのあとは、どうぶつしょうぎを広める活動とか、デザインとか自由にやろうと思ってLPSAもやめて、完全なフリーになった」
――それからフリーでいろいろ活動を続けて、いまはボードゲームカフェの「いっぷく」を経営しているんですね。
藤田「そうです。自分が勝負事が向いてないと思いこんでたから、まさかもう一度競技をすることになるとはまったく思ってなくて。引退後はどうぶつしょうぎを子どもにうまく負けてあげるとかそういうことを延々、数年間やってた」
――ゲームは子どもたちを相手にうまく負けてあげるのも、指導者として大切なことなんでしょうね。藤田さんはもともと、将棋をやる前は囲碁をやってたんですよね?
藤田「子どもの頃、一番最初にやったボードゲームは囲碁です。囲碁をやるきっかけになったのは、近所の児童館でやってたオセロ大会で優勝したのね。父が囲碁やってたから、娘に囲碁をやらせる機会をうかがってたのよ。オセロ大会で優勝した日に、すごいその気になって『あたし、囲碁もやるー!』みたいな。でも囲碁は才能がなかった。毎日、碁会所に行ってたのね。それで初段ぐらいにしかならなかったのよ。中部には羽根直樹君(三重県出身、現碁聖)っていう天才がいて。こっちは大会とかで後ろでおとんが見てて。『うっとうしいなあ』って思いながら、いやいややってたわけ。だから全然伸びなかった。(大学在学中に)将棋をやり始めたきっかけも、囲碁をもう一回やってみたいなと思って。たまたま一緒にいた友達が将棋しかルール知らなくて。やってみたら『将棋の方が自分の性格に合ってたわ、あたしが求めていたのは将棋だったんだ!』と思って。『将棋がファム・ファタール(運命の女性)だ!』と思ってたんですよ! ところがですよ! 将棋よりハマるものがあるとは思わなかったよね、マジで。『将棋が100パーセント正義』みたいな価値観で十年以上生きてきたわけですよ。びっくりだよ、本当にね」
――将棋が優れたゲームなのは間違いない。ただし一方で世界には同じように奥深くて面白いゲームがいくつも存在する。でも将棋をやってる人はついつい『将棋こそキング・オブ・ゲームなり』と思ってしまいがちかもしれませんね。
藤田「思ってる! 自分もそう思ってた」
――連珠についてよく知らないのに「連珠? 五目並べ? それのどこが面白いの?」と思ってる人も多いかもしれませんね。
藤田「連珠に興味を持ったきっかけは、将棋の普及活動をしてるうちに、イベントブースとかで他のボードゲームの人たちとも知り合ってお話を聞くんだけど。私は囲碁と五目並べって、兄弟のように思ってたのね。そしたら岡部さん(寛九段)っていう連珠の棋士が『いや違う、連珠は限りなく将棋に近いゲームだ』って言うの。『えっ、そうだったの?』って思って。それでまず興味を持ったのね。将棋は要するに、王様を詰ませるまでのスピードを競争するわけじゃん」
――将棋の終盤はそうですね。
藤田「五目並べも、石が5個並ぶまでのスピードを競争するのね。将棋で『王手』『詰めろ』『一手すき』『ゼット』(絶対に詰まない)とかあるじゃん。速度計算。あれがすべて連珠でも同じなんですよ。将棋の終盤の考え方が全部応用が効く。『じゃあ連珠って何手ぐらいで終わるの?』って言ったら、だいたい三十手ぐらいだっていうの。早いと十手で終わることもある。要するに、3手目ぐらいから終盤なの。4手目、5手目から『詰めろ』の連続。序盤は『詰めろ』以外の手をやったら負けちゃうぐらいの、それぐらいシビアな戦い。である日ふと、『そういえば私、駒組とかあんま興味なかったわ』って気づいたの。それより駒がぶつかってからの最終盤が楽しかった。将棋を始めた時も『詰み』って状態が面白くてハマっていった。だから連珠って最初から『詰み』を争ってるからすごく楽しいの」
――Twitterを見ていると、将棋愛好者でも「五目クエスト」で連珠の面白さに目覚めたという人を見かけますね。
藤田「そう! 面白いのは、囲碁の人も連珠を始めるとすごく強いの。ところがね、棋風が空間型なの。将棋系の人は連珠でも速度概念がしっかりしててすぐにコツをつかむ。囲碁の人は、相手に打たれたくないいい場所、どっちが先に好点を押さえるか、みたいな、そういうのが上手い。囲碁って「地」(じ)の取り合い、領地の争いじゃん。そういう空間を支配することにはすごく長けてて」
――ほー。そういうバックグラウンドの違いで、棋風に違いが出てきたりするんですね。
藤田「する。囲碁の芝野龍之介二段と、将棋の牧野光則五段は全然棋風が違う」
――そのお二人はそれぞれの業界で、どちらも文字通りのプロですね。牧野さんも連珠が大好きなんですね。藤田さんと牧野さんは最近、大の仲良しのようですが。
藤田「そうなんです。なんで牧野さんと仲良くなったかっていうと・・・」
(次回に続く)