戦国時代に海外からやってきたお菓子もあった、和菓子の歴史
お菓子が好きな人は老若男女問わず多いです。
その中でも和菓子はユニークな歴史をたどっていき、江戸時代にその花が開きました。
この記事では南蛮菓子の歴史について紹介していきます。
戦国時代にヨーロッパからやってきた南蛮菓子
南蛮菓子とは、西欧、特にポルトガルやスペインから伝わった菓子のことを指します。
16世紀末から17世紀初頭、日本にやってきた南蛮人、つまりポルトガル人やスペイン人たちがもたらした食文化は、単なる一過性の異国の風ではなく、その後の日本の食文化に深く根を下ろすことになりました。
南蛮菓子はその代表例であり、当時の日本では「珍しい異国の甘味」として、特に砂糖をたっぷり使った贅沢な菓子として知られたのです。
1608年、薩摩藩の記録に「南蛮菓子」という言葉が初めて登場し、1635年には京都の老舗「虎屋」が宮中に南蛮菓子を納めたことが記録されています。
カステラやカルメラ、有平糖などの南蛮菓子は、次第に日本各地に広まり、特に砂糖をふんだんに使うことが大きな魅力でした。
当時、砂糖は非常に貴重で、輸入品に頼っていたため、その甘さは日本人にとって格別なものだったのです。
南蛮菓子の代表格として知られる「金平糖」は、砂糖の塊そのものであり、1569年には織田信長が宣教師ルイス・フロイスから贈られたという逸話も残っています。
金平糖の角を綺麗に出す製法は日本独自のもので、長崎の職人たちが2年かけてその技術を完成させたという話が井原西鶴の『日本永代蔵』にも記されているのです。
また、もう一つの代表的な南蛮菓子「カステラ」は、小麦粉、砂糖、卵を使うという点で、日本の菓子作りに大きな影響を与えました。
それまでの日本では、宗教的な理由から卵を食べる習慣が少なく、動物性の材料を避けてきた和菓子にとって、鶏卵を使うことは革命的な出来事だったのです。
カステラは日本の菓子職人たちに大きなインスピレーションを与え、やがてカステラ用の特別な鍋や焼き方が工夫され、独自の発展を遂げました。
17世紀初頭には後水尾天皇の行幸の折にカステラが献上され、1712年には『和漢三才図会』でその製法が紹介されています。
南蛮菓子が日本の和菓子に与えた影響は計り知れませんが、特に砂糖や卵の使用はその後の和菓子作りに革命をもたらしました。
とはいえ、南蛮菓子がそのまま和菓子に取って代わったわけではありません。
日本独自の伝統的な餅や団子の系譜も根強く残り、和菓子は多様な進化を遂げていきました。
例えば、「ふの焼き」という菓子は、千利休が好んだとされるもので、小麦粉を水で溶いて焼き、味噌を塗って巻いたものであったのです。
その後、餡を包んだ「助惣焼き」など、さらに進化を遂げ、江戸時代には名菓として親しまれました。
こうして、南蛮菓子は和菓子文化に新たな風を吹き込みつつも、日本の伝統的な菓子と融合し、独自の発展を遂げました。
砂糖と卵の力で甘味の幅を広げつつ、和菓子はより豊かな文化となっていったのです。
参考文献
並松信久(2021)「和菓子の変遷と菓子屋の展開」京都産業大学『日本文化研究所紀要』第26号