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ジョニー・デップ、還暦を迎える。虐待を受けた子供時代、恋と別れ、濡れ衣の苦しみを乗り越えた60年

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
先月、カンヌ映画祭に出席したジョニー・デップ(写真:ロイター/アフロ)

 6月9日は、ジョニー・デップの誕生日。21歳でデビュー、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」で40歳にして世界のトップスターとなった彼も、ついに60歳だ。

 ここに至るまで、デップは多くの並外れた経験をしてきた。そのほとんどは良いことだが、7年前には元妻アンバー・ハードからDVの濡れ衣を着せられるという苦悩も味わっている。しかし、真実は、ちょうど1年前、ヴァージニア州の名誉毀損裁判に勝訴して証明された。判決以来2回目で、しかも60の大台に乗るこの日を、デップはきっと感慨深く迎えることだろう。

 1963年、ケンタッキー州生まれ。母は再婚、父は母より歳下で、初婚。兄と上の姉は母の連れ子、下の姉でデップのプロダクション会社のプレジデントを務めるクリスティ・デムブロウスキとは父親が同じだ。母は怒りっぽく、しばしば父や子供たちに暴言を吐き、暴力を振るった。母が荒れるたび、デップは別の部屋にこもり、ギターの練習をしながら嵐が過ぎ去るのを待ったものだ。どんな酷い仕打ちにも抵抗しなかった父は、デップが15歳だったある日、突然家を出ていった。ショックを受けた母は薬を大量に飲み、死の境をさまよう。その恐怖体験は、デップの心に大きな影響を与えることになった。

とんとん拍子で俳優デビュー

 家族が引っ越しを繰り返したこともあり、学校に馴染めなかったデップは、高校を中退し、当時住んでいたフロリダのバンド「ザ・キッズ」のメンバーとなった。より大きな成功を目指し、バンドはロサンゼルスに拠点を移すも(この時点でデップはまだ十代だったが、すでに最初の結婚をしている)、全国から多数のミュージシャンが集まってくる激戦地では、芽が出ないまま。そんな中、デップは新進俳優ニコラス・ケイジと知り合い、勧められるままにケイジの担当エージェントに会いにいく。そこから「エルム街の悪夢」のオーディションに呼ばれ、演技未経験にしてとんとん拍子に映画デビューが決まってしまった。

 それまで俳優になることなど考えてもいなかったが、バンドが再結成される見込みもない中、自分の道はこれなのだろうと悟り、デップは演技の勉強を始める。それからまもなくテレビドラマ「21ジャンプ・ストリート」がヒットして、若い女性のアイドルに。ティーン雑誌の表紙を次々に飾るようになるも、そのレッテルを嫌うデップは、ジョン・ウォーターズ監督の「クライ・ベイビー」、ティム・バートン監督の「シザーハンズ」、ラッセ・ハルストレム監督の「ギルバート・グレイプ」、ジム・ジャームッシュ監督の「デッドマン」などの映画を選び、個性派主演俳優のキャリアを築いていった。

ケイト・モスとジョニー・デップ、1997年
ケイト・モスとジョニー・デップ、1997年写真:Shutterstock/アフロ

 その間、ネガティブな形でマスコミに取り上げられたこともある。1989年には「21ジャンプ・ストリート」のロケをしていたバンクーバーでは、ホテルの部屋で騒ぎ、駆けつけた警備員に暴力を振るって逮捕されたし、1994年にはニューヨークのザ・マークホテルに宿泊中、部屋をめちゃくちゃにして、やはり警察に連行された。また1993年10月31日には、デップが所有するサンセット通りのナイトクラブ、ヴァイパー・ルームでリバー・フェニックスがドラッグの過剰摂取のため死亡するという悲劇も起きる。2004年に売却するまで、デップは毎年10月31日にはクラブを閉鎖してフェニックスを追悼した。

 恋愛ネタでもマスコミを騒がせた。最初の妻ロリー・アン・アリソンと離婚した後、デップは、シェリリン・フェン、ウィノナ・ライダー、ケイト・モスらと熱愛しては、婚約。フェンと交際したのはフェンが「ツイン・ピークス」で大ブレイクする前だったが、ライダーは最も注目の若手女優、モスは大人気スーパーモデルとあって、どこに行ってもパパラッチに追いかけられた。そんなデップは、1998年、「ナインス・ゲート」の撮影で滞在したパリでヴァネッサ・パラディと出会うと、すぐに子供を作る。自分が不安定な家庭で育っただけに、わが子に同じ思いはさせたくないと、デップは、子供の前では声を荒げない、また子供たちを全否定するようなことは言わないと誓った。3年後には息子も生まれ、デップとパラディは、結婚しないまま温かい4人家族を築いた。

ヴァネッサ・パラディとジョニー・デップ、2006年
ヴァネッサ・パラディとジョニー・デップ、2006年写真: ロイター/アフロ

ハードからのDVに苦しむ

 そんなふたりにも、やがてヒビが入り始める。デップの仕事に合わせてアメリカで多くの時間を過ごす中、パラディがキャリアに犠牲を強いられていると感じるようになったことが原因らしい。アンバー・ハードとの恋は、そんな中で始まった。出会いは、2011年の映画「ラム・ダイアリー」。撮影時から惹かれていたが、デップにはパラディ、ハードには同性パートナーがいたため、一度キスをしただけで終わった。しかし、映画公開時に再会すると、たちまち恋へと進展。交際が始まった時、デップは48歳、ハードは25歳だった。

 初めの頃、ハードとの関係は最高だった。だが、1年か1年半ほどが経過すると、彼女は本性を見せてくる。何気ない会話であっても、自分が絶対正しくなければならず、違うことを言うとキレるのだ。一度始まるとエスカレートし、叫び出し、「ばか」「デブ」「能無し」などと言ってきたり、暴力を振るってきたりもした。デップの友達がいる前でもやるし、デップの友達に侮辱的な態度を取ったりもする。

アンバー・ハードとジョニー・デップ、2015年
アンバー・ハードとジョニー・デップ、2015年写真:ロイター/アフロ

 にもかかわらず、初めて結ばれたロンドンのホテルの同じ部屋に宿泊した時、すべてが最高だった頃を思い出してか、デップはハードにプロポーズした。しかし、婚約後も彼女は変わらず、デップは自分たちの関係にますます疑問を持つようになる。それでも行動を取れないまま、その日が来てしまい、2015年2月、ふたりは夫婦となった。

 デップがようやく離婚の決意をするのは、それからわずか15ヶ月後。彼の意図を知ると、怒ったハードはデップがバンドのツアーで国外に出た隙を狙って、自ら離婚を申請する。追い討ちをかけるように、あざのある顔で裁判所に出廷し、DVを受けているとしてデップに対する接近禁止命令を申請した。そのショッキングなニュースは、たちまち世界を駆け巡る。

名誉毀損裁判で勝訴、真実を証明

 汚名をかぶせられたことにデップは反論したかったが、ここは黙ってさっさと終わらせたほうが良いと弁護士に言われ、ふたりが一緒だった頃のことについては今後公に話さないという条件をつけた上で、デップは渋々従う。だが、2018年12月、ハードは「Washington Post」に、DV被害者として意見記事を執筆するのだ。名指しこそされていないものの、それがデップについてであることは誰の目にも明らかで、2019年2月、デップはハードを名誉毀損で訴えた。一方、ハードは、デップの弁護士アダム・ウォルドマンがマスコミに対してハードの名誉を毀損することを言ったとして、デップを逆訴訟。両方を合わせた裁判は、2022年4月、ヴァージニア州フェアファックスで始まった。

裁判で証言するジョニー・デップ
裁判で証言するジョニー・デップ写真:代表撮影/ロイター/アフロ

 6週間にわたる裁判の結果は、デップの圧勝。ハードはデップに1,035万ドルを、デップはハードに200万ドルを支払うよう言い渡された。ハードと彼女の弁護士は判決を無効にしようと足掻くもかなわず、控訴をする。しかし勝ち目がないのは明白で、2022年末、デップに100万ドルを払うことで示談となった。この100万ドルはハードの保険会社が払う。デップはこのお金をチャリティに寄付すると宣言している。

 それから半年、デップはディオールと記録的な大型契約更新をし、最新作「Jeanne du Barry」を引っ提げてカンヌ映画祭に出席もした。アーティストとして制作した作品も売れ、(怪我のせいでアメリカツアーは延期になったが)音楽活動も好調だ。この後には、「ブレイブ」以来25年ぶりの監督作も控えている。人生100年時代、彼のクリエイティブなエネルギーは、変わらず燃え続けるだろう。これからどんな活躍をしてくれるのか、とても楽しみだ。

 お誕生日おめでとうございます。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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