【九州三国志】塩法師丸の波乱万丈な家督相続!北九州を制した大友義鎮、その光と影
豊後国府内の正月が明けたばかりのある日、一人の男児が大友氏20代当主・大友義鑑の元に誕生しました。
名は塩法師丸。年若き彼の運命が、激動の時代に飲み込まれていくとは、この時まだ誰も予想していなかったことでしょう。
傅役を務めたのは重臣の入田親誠。この頃、塩法師丸はまだ大友家嫡男の地位を揺るぎないものと信じられていました。
しかし、運命の転機は天文19年(1550年)に訪れます。
父・義鑑が、塩法師丸の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策したのです。
彼を支持する入田親誠や反義鎮派の重臣たちは、義鎮の廃嫡を企て、粛清を目論みます。
義鎮を湯治と称して別府浜脇に送り込み、その隙に忠実な側近たちを一掃しようという計画でした。
しかし、この企みを察知した義鎮派は反撃に打って出ます。
2月10日、「二階崩れの変」として知られる大事件が起こりました。
義鎮派の奇襲により、塩市丸とその母が殺害され、義鑑も傷を負い、2日後に死亡。
混乱の中、義鑑の遺言に従って義鎮が家督を相続し、大友氏21代目の当主となりました。
反義鎮派の粛清による血の嵐が吹き荒れる一方で、義鎮の治世が幕を開けます。
義鎮の治世初期は、混乱の連続でした。
大内氏との同盟を強化し、実弟の晴英(大内義長)を大内氏当主として送り込み、大内氏の支配権を引き継ぐことで北九州一円への影響力を拡大しました。
特に、博多の支配権を獲得したことは、大友氏にとって経済的な恩恵をもたらしました。
しかし、この安定も長くは続きません。
弘治3年(1557年)、毛利元就の攻撃を受けて義長が自害し、大内氏が滅亡。
これにより、義鎮は長門・周防への影響力を失います。
また、義鎮がキリスト教に関心を寄せ、フランシスコ・ザビエルを招いて布教を許可したことで、家臣団の中には宗教的な対立が生まれました。
一萬田鑑相や宗像鑑久らによる謀反が相次ぎ、義鎮の政治基盤を揺るがせます。
それでも義鎮は、肥後の菊池氏を滅ぼし、さらに肥前で少弐氏や龍造寺氏を退けるなど、戦いの中で北九州一円を実質的に掌握しました。
やがて義鎮は、本拠地を府内から丹生島城(現・臼杵城)に移し、防御を固めるとともに新たな経済都市の建設を図りました。
その動きには、毛利氏の脅威を警戒し、南方へと進出する意図があったとも言われます。
義鎮の手腕により大友氏は北九州の覇者となりましたが、その治世には常に宗教や家臣団の対立、そして外敵との戦いがつきまといました。
「宗麟」と号するようになった義鎮。
その波乱の人生は、北九州を巡る争いの象徴であり、また一人の人間としての苦悩に満ちたものであったと言えるでしょう。