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菅義偉首相の「自助・共助・公助」は実現可能か サッチャーの新自由主義と小さな政府とも決別した英保守党

木村正人在英国際ジャーナリスト
「社会というようなものは存在しない」と言い切った故サッチャー英首相(写真:Shutterstock/アフロ)

野党は「新自由主義か、支え合いの社会か」と反発

[ロンドン発]自民党総裁選で安倍路線の継承を訴えた菅義偉官房長官が14日、534票のうち377票を集める圧勝で新総裁に選出されました。16日召集の臨時国会で第99代首相に指名されます。菅氏は目指す社会像について「自助・共助・公助、そして絆」と語りました。

「まず自分でやってみる。そして地域や家族がお互いに助け合う。その上で、政府がセーフティーネットでお守りをします。さらに縦割り行政、そして前例主義、さらには既得権益、こうしたものを打破して規制改革を進め、国民の皆さんに信頼される社会を作っていきます」

これに対して立憲民主党や国民民主党などが合流して結成した新党「立憲民主党」の枝野幸男・初代代表は早期解散を意識してか「国民に選択肢を示す時です。過度に競争をあおり自助と自己責任を求める新自由主義か、支え合いの社会か」と早速、反発しました。

新型コロナウイルスの関連倒産が9月15日時点で527件(帝国データバンク調べ)にのぼる中、「今、自助を強調されても困る」というのが国民の率直な気持ちかもしれません。しかし菅氏は名門政治家一族の安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相とは違って叩き上げの政治家。

それだけに「自助」という言葉には実感がこもります。保守系の英高級紙デーリー・テレグラフは「比較的目立たない出身の菅氏は日本の悪名高い政治システムのヒエラルキーをものともしなかった」と好意的に報じました。

「自助」か「支え合いの社会」か――世界は今、岐路に立たされています。

故サッチャー英首相「社会というようなものは存在しない」

かつて「社会というようなものは存在しない」と言い切り、個人・世帯レベルの「自助」を強力に推進した政治指導者がいました。非妥協的な政治・外交姿勢で旧ソ連から「鉄の女」と呼ばれたイギリスのマーガレット・サッチャー首相(故人)です。

1987年9月、サッチャー首相は英女性雑誌「ウーマンズ・オウン」のインタビューに個人と社会、そして国家のつながりについて次のように語り、その後も長く繰り広げられる論争を呼び起こしました。要点を見ておきましょう。

「私たちのほとんどは、子供世代が私たちよりも良い生活を送れるように働いています。私たちのほとんどは、おばあちゃんが助けを必要とする場合、自分のポケットに入っているおカネで手助けをしたり、ご馳走を与えたりできるように働いています」

「より高い給与を得るために、そしてお金を稼ぐために一生懸命働いていなければそうすることはできなかったでしょう。それが人生の原動力、素晴らしいエンジンです。お金をもっとほしがることに何の問題もありません」

「『私はホームレスです。政府が私に住むところを与えなければならない!』。彼らはそのように社会に問題を投げかけます。しかし社会とはいったい誰なのですか。そのようなものは存在しません。存在するのは個人の男女と家族。政府でさえ個人を通してしか何もできません」

新自由主義でヤッピーが闊歩した国際金融街シティー

イギリスは第二次大戦でアメリカの協力でナチスドイツを打ち負かしたものの、国民は疲弊し、戦後「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる福祉国家のモデルとなった原則無料の国民医療サービス(NHS)を発足させます。

しかし行き過ぎた社会保障政策と高賃金で国際競争力を失い、年率20%を超えるハイインフレーションと10%超の高い失業率に苦しめられます。社会主義の悪弊を断ち切ろうと、個人主義に基づく新自由主義(ネオリベラリズム)を掲げて登場したのがサッチャー首相でした。

国際競争力を取り戻すため不採算事業の炭鉱を民営化して閉鎖に追い込み、当時は政権を倒すほどの力を持っていた労働組合を弱体化させ製造業から金融・サービス業に大きく舵を切りました。「民営化」「規制緩和」「小さな政府」が当時、流行のキーワードでした。

国際金融街シティーには濡れ手に粟の大金を手にした「ヤッピー」が闊歩し、強欲資本主義を生み落としたサッチャリズムに対しては社会的な批判が浴びせられるようになります。

成長をもたらすのは自助の精神や個人主義に基づく厳しい競争です。

しかし世界金融危機と欧州連合(EU)離脱、そして今回の新型コロナウイルス・パンデミックで「社会というようなものは存在しない」というサッチャリズムに対して長年「小さな政府」を掲げてきた保守党からも反旗が翻されています。

ジョンソン英首相「社会というようなものは本当に存在する」

EUからの「合意なき離脱」を再び唱えているボリス・ジョンソン首相はコロナ危機の最中の今年3月、ビデオメッセージでこう呼びかけました。

「みんなで力を合わせてやりましょう。コロナ危機がすでに証明していると私が思うことの一つは、社会というようなものが本当に存在するということです」

「NHSを支えるために現場復帰した皆さんに感謝します。ちょうど今、2万人のNHSスタッフが復帰したことをお伝えします。驚くべきことです。そして危機を乗り越えるのを手伝うため75万人の一般市民がボランティアを志願しました」

ジョンソン首相は「信念なき政治家」です。世論の風向きを読んで、場当たり的に発言をころころ変えていきます。「社会というようなものは本当に存在する」という発言から、サッチャー首相のような揺るぎなき政治信条を読み取ろうとするのは無理があります。

コロナ危機だけでなく、世界金融危機や地球温暖化問題でもネオリベラリズムの限界が浮き彫りになっています。際限なく自分の利益だけを追求する強欲資本主義は格差を異様に拡大し、結局、社会的なコストを高めてしまいます。

しかし、その一方で行き過ぎた共助や公助は自助の精神を損ねます。菅氏は「自助・共助・公助」のバランスを上手く取ることができるのでしょうか。

日本の高齢者(65歳以上)人口は3588万人で、総人口に占める割合は28.4%にのぼります。7年8カ月に及ぶ日銀の異次元緩和でも日本経済が活性化しなかった最大の理由は日本が世界に例を見ない「老人大国」だからです。

そして政治システムは地縁、血縁に雁字搦めで「世襲議員」が多くなり、競争原理が十分に働きません。日本の政治はもはや「家業」と化しています。

誰が日本の首相になっても、この2つの問題を解決するのは至難の業と言えるでしょう。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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