〈前科がなくとも犯罪予告者にGPSを〉という山東昭子参院副議長の仰天発想
障がい者施設襲撃事件に関連して、自民党の山東昭子参議院副議長が、「人権という美名の下に犯罪が横行」おり、前科がなくとも「犯罪予告者にもGPSを埋め込むことを検討すべき」と発言していたということが報道されています。国会議員ともあろう人が、刑法や刑事訴訟法などの刑事法がいったい何のために存在するのか、犯罪者の人権がなぜ保障されているかについて、完全に誤解されています。
そもそも、犯罪を未然に予防し、不幸にして犯罪が実行されてしまった場合は、犯人を検挙し適切に処罰することは、もちろん重要なことですが、刑事法の第一の目的は、われわれが犯罪の被害者となることを防ぎ、犯罪者を将来に渡って処罰することではありません。普通に暮らしている善良な国民が、犯罪行為を犯してもいないのに突然身体を拘束されたり、不当に犯罪の嫌疑をかけられ、処罰されることがないようすることが、刑事法の第一の目的であり、その反射的効果として、犯罪を犯した者も、犯罪を犯そうと思っている者も、国家から恣意的に処罰されることがないように、厳格に法に従って対処することが求められているのです。
刑罰による処罰で結果的に、国民の生命や身体、財産などの利益が守られることになっても、そして、そのような犯罪抑止効果は否定できませんが、それが処罰の第一の目的なのではありません。処罰は、一般民衆の処罰感情を満足させ、沈静化させることを第一の目的としているのではなく、犯された犯罪の罪責に応じた程度を上限として、むしろ刑罰を制限することを目的としているのです。応報刑を意味する〈目には目を、歯には歯を〉というタリオの原理(同害報復)は、〈受けた被害を超える応報は禁じる〉という意味であって、復讐とは明らかに異なった原理なのです。そして、現在の刑罰制度では、受刑という〈時〉を有意義にするために、応報の枠内で、刑務所では犯罪者の人格改善が試みられ、また、犯罪とその処罰を法律という形で国民に事前に予告することによって、犯罪の抑止が期待されるだけなのです。かりに犯罪者が〈改善〉されずに社会に出てきたとしても、それは刑罰制度の欠陥と見るべきではなく、広く社会政策の欠陥なのであって、社会全体がフォローすべき課題です。刑罰が法に従って厳格に運営されているという事実こそが、社会にとって重要なのです。
黙秘権や令状がなければ逮捕や捜索、押収ができないという令状主義など、刑事訴訟の厳格な手続きも、犯罪認定とそれに対する処罰の手続きを厳格に規定して、犯罪を犯していない善良な国民が不当に処罰されることがないようにするためです。これを、「人権という美名の下に犯罪が横行している」と見るのは本末転倒で、それは権力に誤謬(ごびゅう)なしという、何とおそろしい傲慢な考えでしょうか。犯罪者に対する人権保障を否定する者は、犯罪を犯してもいないのに、不当に犯罪の嫌疑をかけられた善良な国民に対しても人権を認めないことになります。えん罪については、別途救済手続きを設ければよいということではありません。なぜなら、警察や検察、裁判所といった権威ある国家機関によって、一度〈犯罪者〉という烙印が押されれば、それは虚構であっても〈リアルな虚構〉となり、それを消すことはまさに不可能に近いからです(中世の魔女裁判を思ってください)。
前科があろうとなかろうと、「犯罪予告者」をどんどん拘束して、GPSを「埋め込んで(手術して?!)」釈放し、警察が監視する。こんな社会にだけはしてはいけません。犯罪の不安から監視や厳罰化を強める世論は、感情的であり、結局は国民は自ら自分たちの自由を狭め、社会を閉塞的で冷たいものにしてしまいます。司法がそのような世論を後押しすべきではなく、立法府に属する国会議員たる者は、司法がそのような世論に従わざるをえなくなるような立法を行うべきではないのです。(了)