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樋口尚文の千夜千本 第112夜「レディ・プレイヤー1」(スティーヴン・スピルバーグ監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:ロイター/アフロ)

キャリアあらばこその「遊び」と「責任」

自由で夢いっぱいのお子様のお絵かき帳では、ゴジラとガメラが普通に闘っていたりするのだが、オトナの世界ではそんな思いつきはなかなか許してもらえない。「ゴジラ」シリーズと「ガメラ」シリーズを両方手がけた金子修介監督をもってしても、テレビ番組『ウルトラマンマックス』のなかで子供たちが砂場でソフビのゴジラとガメラを喧嘩させているシーンを控えめに設けたに留まった。そしてなんとソフト化された際は、この一瞬の対決カットすらカットされたようだ。オトナのビジネスの世界では、版権にまつわる細かい断りとけっこうな対価なくしておいそれとお子様のお絵かき帳みたいに遊んだりはできない。

そもそも『アベンジャーズ』のように同じマーベル・コミックのヒーローたちがクロスオーバーしただけでもドリーム・チームなのだから、本作のように(もう公式サイトでも堂々掲げているので書いてしまうが)ガンダムとメカゴジラが対決して、キティちゃんも端っこをてくてく歩いているような〈夢の共演〉が全篇繰り広げられる作品は、観ていてちょっと頬をつねりたくなる感じであった。東映版『スパイダーマン』の巨大ロボを偏愛するという天下のオタク原作者の作品とはいえ、ここまで洪水のごとき版権使用パラダイスを実現できたのは、やはりスピルバーグの業績とブランドあってのことだろう。

つまり本作はスピルバーグならではのオトナの「遊び」であったわけだが、この子どものお絵かき帳レベルの自由奔放さは、スピルバーグの今の立ち位置なくしてはできない域のものだろう。遊ぶというのは簡単だが、それにしてもスピルバーグは立場を活かして極限的に「遊びきって」いるというわけだ。しかしスピルバーグが本当に凄いのは、「遊び」の一方でそのキャリアが背負う「責任」を、やはりその立場を存分に活かしてきっちりと果たしてみせたということだ。すなわち、スピルバーグは『レディ・プレイヤー1』の編集期間を利用して、志あるスタアたちと短期間で『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』という尖鋭な社会派作品を撮りおおせた。この離れ業とて、スピルバーグのキャリアと信頼なくしては到底なしえないことである。

さらに厳密に言えばポップカルチャーのアイコンを総動員した遊戯の饗宴『レディ・プレイヤー1』にも、楽し過ぎる糖衣にくるんでネットに支配された文明批判とファンタジックなほどの人間讃歌が籠められており、まごうことなきスピルバーグ印の意欲作なのだった。そして、初期作品以来の驚きに満ちた設定のアイディアと映像ギミックの数々はさまざまな細部への迂回によって披歴され、一方の『ペンタゴン・ペーパーズ』ではむしろギミックと迂回を排して演技を直視するマッチョに締まった好対照の映画づくりが試みられる。

そんな次第で、今まさに両作をともにスクリーンで味わえるという絶好の機会を逃す手はないが、『レディ・プレイヤー1』のスピルバーグが、主題的な厳格さの一方で、映画愛の方面ではとにかく機嫌よさと悪戯っぽい遊びごころで突沸するところがなんともよかった。多くは語らないが素敵すぎる『サタデー・ナイト・フィーバー』や本家よりよく出来ているんじゃないかという怖さの『シャイニング』のくだりなど本当に好きである(台詞ではジョン・ヒューズのくだりなど大笑いであった)。チラリと見えるトシロウのアバター=ダイトウの顔は、『蜘蛛巣城』のミフネ仕様ではないかしら、もし某係争にもう少し早めの決着がついていたらウルトラマンも栄えある参戦を果たせたのではないかしら‥‥などなど、心のなかの愉快なおしゃべりも止まらなかった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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