未来のことだから、まちの計画は、40代以下でつくろうと決めた。結果、2年連続の社会増へ
■生きた計画書と神山町のこと
「みなさんへ」で始まる、徳島県・神山町の創生戦略「まちを将来世代につなぐプロジェクト」(以下、つなプロ)(*1)を初めて見たときは、軽い衝撃を受けました。「よく出来た計画書をつくっても、実行出来なければ意味がありません」と本文は続きます。
「可能性が感じられるまち」をビジョンに据えて、若い人たちが暮らしやすいと感じる風とおしのよさ、教育の質、新しさのある視点。それを実現するための7つの領域と、それぞれの具体策が書かれています。KPIとして人口数の目標設定。地域内循環の考え方。
一貫してやわらかな言葉でわかりやすく表現されていて、最後には計画をつくるのに関わった町民38人の名前がきちんと記されている。これほど具体的で、生きた言葉で書かれたまちの計画書は初めて見たと思いました。
徳島県神山町は人口約5,000人小さなまち。一時は「消滅可能性都市」のリストにも載ったことのある中山間地です。
2010年頃にはIT企業のサテライトオフィスができ、メディアでもこぞって取り上げられました。
その背景には大南信也さんをはじめとする地元有志が国際交流やアーティスト・イン・レジデンスの活動を手がけてきたこと、その流れでNPO法人グリーンバレーが設立され、移住相談の窓口になり、よそ者が地域になじむための「神山塾」なるプログラムがあることなど、さまざまな施策があって今につながっています。
それがここ5〜6年の食住分野での取り組み(詳細は後半にて)や、学校の魅力化、年齢層を越えた人口増。ただ移住者が増えているというフェーズはすでに越えていて、迎えた移住者とともに「どんな地域社会なら未来に可能性を感じられるか」「新たに人を呼べるか」を考えて実行するフェーズに入っている。
2019年度には人口が8年ぶりに社会増に転じ、2020年も連続して社会増となっています。
多くの担い手は30〜40代の若手が中心。その起点になったと思われる「創生戦略」(第1期)はどのようにつくられたのでしょうか。
■これまでとは違う、実現するための計画を
2015年、国による地方創生が始まり、全国の市町村ではこぞって「地方版創合戦略」がつくられました。神山町で戦略づくりを担当したのが、当時総務課にいた杼谷(とちたに)学さんです。杼谷さんはその5年前、まちの総合計画(*2)づくりにも携わっていて、従来の計画づくりに徒労を感じていたといいます。
杼谷さん「2010年の総合計画は従来どおりの方法でつくりました。自治会やPTAの代表、有識者らに集まってもらって、町とコンサルが考えた草案に意見をもらうような形で。2年かけて計画はできましたが、その後、行政内部にまったく浸透しませんでした。それこそ絵に描いた餅です。
行政って縦割りなので、各市町村の方針とは関係なく、国の政策や方針に引っ張られがちで。悲しいかな、総合計画に書かれていることを元に事業展開されることは少ないんです。だからあの計画、どれほど意味あったんかなって。これが自分にとっては大きな失敗体験で、同じことは繰り返せないと思っていました。」
「実現するための計画をつくる」という杼谷さんの思いは、創生戦略づくりの土台になっていきます。杼谷さんはちょうど一緒に仕事をしていた、デザイナーの西村佳哲さん(*3)に声をかけました。
杼谷さん「西村さんは仕事がとても丁寧で、会議でもみんなの意見を拾ってファシリテーションされるのが上手だという印象をもっていました」
一方で西村さんは、役場の人たちと仕事をするなかで、職員が会議の場で自由に発言することにあまり慣れていないことに気づいたといいます。
西村さん「打ち合わせでこちらが一生懸命話をしても、しーんとしたりして。帰りに落ち込むこともあって(笑)。でも気が付いたんですね。あ、ああいう場で話すのに慣れていないだけなんだなって。なので人が集まって計画づくりをするなら、参加する人たちの頭と心が自ずと動き始めるような場をつくるのが大事だろうと考えました。自分の言葉で話せないと、本気度の高い話にはならないから。プロセス設計が大事だなと。」
まずはコアチームを、杼谷さん、西村さん、グリーンバレーの大南さんのほか、リージョンワークスの後藤太一さん、町長、役場から3名の職員が加わり8名で結成。
このメンバーでプロセスをどうするか?を決めていきました。
話し合いを進めるワーキンググループには、町内のキーマン全28名(役場職員と民間で大まかに半々)に声をかけて集まってもらうことになります。
■メンバーが若い人に偏っていてよかったのか?の問い
話を聞いていて気になったのは、参加したメンバーのセレクトでした。まちの計画をつくるとき、一般的には自治会や商工会など、まちの組織の代表を集めて町内の声を広く聞いたとみなされます。
神山の創生戦略づくりに参加した人たちは、組織の代表ではなく、それぞれが「個人」の立場での参加を求められました。杼谷さんによれば、性別、職業のバランスには配慮しながらも年齢は意図的に49歳以下に絞り、「まちの未来に前向きに参加してくれそうな人」を基準に選んだとのこと。移住したての人や、驚くことに、まだ住民票のない人さえ含まれていたと。
その理由はすべて戦略のなかに明記されていました。
「移り住んでくる人々、還ってくる人々、暮らしつづける人々など、経験や価値観の異なる者同士が互いに育ち合いながら、気持ち良く暮らしてゆける知恵や工夫の積み重ねが『まちを将来世代につなぐ』ことを実現する。
神山町における創生戦略は、その実施プランとして策定される。」
一言でいえば、まちの将来は、今居る人だけでつくられるものではない、ということ。
画期的だなと深く感心しながらも、公正公平を重んじる行政の常識ではなかなか通用しないのではとも思えました。その疑問を率直に、大南さんへのインタビューの中でぶつけてみると、こんな答えが返ってきました。
大南さん「大事なんは、これが未来の計画ということなんよな。2040年のことを考えるいうたら、2015年の時点で40歳の人ももう65歳。自分たちのことやけん、若い人が考えたらいう話です。
果たしてこれまでのやり方が公正かっちゅうと、そうでもない。自治会長やPTA会長……というのも、見方を変えるとそれはそれで偏っとる。
偏りをなくすいうたら、結局一番無難な方法になるんです。これなら文句が出ないという角の取れた丸いもんになる。でもそれで今まで駄目なんやったら違う方法が必要で。当然リスクもあるし批判もあるけども、現状を変えるために新しい計画を立てよるということやわな。」
他の地域と違っていたのは、創生戦略の「位置付け」だと気付きました。いま暮らす住民にとってリスクのない「総意」を選ぶより、これからを生きる若い人たち、子ども、移住者の意見が色濃く反映される「まちの未来のための戦略」と定義したこと。
40代以下、という年齢だけが重要なのではなく、「誰が参画するか?」を主体的に決めている点。
そしてもう一つ大きいのは、この話し合いが計画を実施する「担い手の発掘」を重視した場だったことです。
■気持ちに火のつくような場だった
議論に入る冒頭で、西村さんはみんなにこんな話をしたといいます。
西村さん「もしここで実現したいと思うプロジェクトが見つかったら、ご自身でやりませんかと。店をやっている人ならギアチェンジするいい機会かもしれない。全国には役場をやめて民間で大事な仕事をしている人もいます。やめないまでも部署異動して実現に関わりたい人がいたら配慮する、ってことでいいんですよね、町長?と。」
県庁に出向中ながらずっとこの戦略づくりに一員として関わってきたのが、現・つなぐ公社の代表理事をつとめる馬場達郎さんです。西村さんの言葉を、馬場さんはよく覚えていました。
馬場さん「言うなぁと思いました、けっこう踏み込むなと(笑)。でもこれと思うものが自分の中にあったら、間違いなく後押しされる言葉だったと思います。自分にはまだそういうのがなかったけど、もしあったら火が点いていたと思う。それくらい自分の案を出しやすい場でした。」
2015年7月に始まった戦略づくりの前半は数回にわたる勉強会が開かれ、まず話し合うための下知識や共通認識を得るための場が設けられました。加えて、数値をもとにした「このまま何もしなければ、神山町はどうなっていくのか」が「なりゆきの未来」として共有されます。「2020年に神山分校が廃校に」「バスが廃線になる」「2040年には小中学校も廃校に」……などなど。
可能性とともに危機感が伝わり「どうすればこの状況を打破できるのか?」と、自然と参加者の“心と頭が動く”場ができていきました。
その後9月からはグループに分かれて領域ごとの話し合いに。「育つ・学ぶ」「泊まる」「エネルギー」「食べる」「届ける」「仕事づくり」といったグループごとに、仮に7つの地域公社をつくるとしたら、それぞれどんな事業計画を立てるだろう?という予算や人員も含めたシミュレーションまでを行いました。
この現場を客観的な立場で見ていたのが、リージョンワークスのアシスタントとして来ていた森山円香(まどか)さんです。
森山さん「なんというか、熱気がすごくて。毎回平日の19〜21時とかなんですけど、22時になっても誰も文句言わずに話し合いが続いたりして。何だこのまちはって。最後の発表で印象に残っているのは『食べる』グループです。のちのフードハブになる案で、事業計画や収支が具体的で、コンセプトもはっきりしていて。」
このとき「食べる」グループから起案され、翌年実際に立ち上がったのが、株式会社フードハブ・プロジェクトです。話し合いを通して出会った2人が中心となり、「神山の食と農をつなぐ」をコンセプトにした事業が生まれました。
森山さん自身もこの場に参加したのがきっかけで、翌年以降も神山に残り、創生戦略を実践する組織としてつくられた「神山つなぐ公社」の一員となります。
■「つなぐプロジェクト」の実行組織として生まれた「神山つなぐ公社」
こうして時間をかけて練られた計画は、2015年12月に「まちを将来世代につなぐプロジェクト(神山町創生戦略、人口ビジョン)」(以下、つなプロ)として公表されました(*4)。
そして同時に計画を進める実働部隊として組織されたのが、一般社団法人「神山つなぐ公社」です。
役場のみでは公平性を重視するあまり「意欲や可能性のある活動」を伸ばしにくく、政局によって左右される可能性もある。民間のみでは公益性が薄れる可能性もある。官民協働がしやすいように「つなぐ公社」ができ、森山さん含めて新たに若手スタッフ4名が参画する形でスタートしたのです。
■どんな施策が具体的に進んだか?「大埜地の集合住宅」
「つなプロ」第1期のなかでも大きな施策となったのが、「すまいづくり」でした。もともと神山町には、紹介できる空き家の物件が少なく、地元出身の若い人でも、結婚や出産のタイミングで町外に出ていかざるを得ない状況がありました。
中学校の旧寮が建っていた町有の敷地に、建設予定だった一戸建て賃貸住宅の計画を、つなプロを機に見直し、より多くの人が住むことができる住宅づくりが始まりました。
「大埜地(おのじ)の集合住宅」の、主にコミュニティづくりの設計を担当したのが高田友美さんです。
高田さん「この敷地は小学校にも中学校にも歩いていける、町内では貴重な立地なんです。神山は町域が広いので、スクールバスで通学している小学生が半分ほどいて、放課後に同級生と気軽に遊ぶことができない。それで、ここにはただ住居を建てるだけでなく、子育てする人たちが集まって助け合ったり、交流できるような、まちのコミュニティハブになるような集合住宅になればという話になっていきました。」
基本の入居の条件は子どものいる世帯か、50代以下の夫婦。家賃は4.5万円。空き家を借りるのに比べれば高いけれど、町内の賃貸アパートと同じくらいの相場です。移住者だけでなく地元の子育て世代の住み替えも対象にしていて、共働き世帯を想定し公営住宅にあるような年収制限はありません。単身者用のシェアハウスも2戸あります。
ユニークなのは、建設のプロセスにおいて、創生戦略にも記されている「地域内経済循環」を重視した手段が取られたこと。たとえば、8棟を一気に建てようと思えば町外の大手住宅メーカーに依頼するしかありませんが、棟ごとに建設する時期をずらし、入居者も一棟ごとに募集していく方法で、地元の大工さんや業者に依頼。結果、工数やコストがかかった面もありますが、地元の大工さんの新たな仕事につながったり、弟子を雇う機会になったりといった動きが生まれています。
さらに集合住宅の敷地内には、「鮎喰川コモン」と呼ばれる共有空間がつくられました。その中に建つコモンハウスは「まちのリビング」として子どもたちの遊び場や、住民に限らず町の誰もが気軽に立ち寄れるコミュニティ施設として機能しています。
現在、すべての棟が完成し、71人(18家族と単身者6名)が入居(2021年12月1日時点)。満室です。このうち6世帯は神山町の出身者による住替え。よそから人を呼び込むだけでなく、外へ出ていく住民をとどめる施策にもなっています。
各戸の境界線がゆるやかに緑でつながれた設計になっているため、子どもたちが敷地内で遊びまわる様子が見られるようになりました。
■食と農をつなぎ新規就農者を支援する事業と、高校の再編
これ以外にも、つなプロによって生まれた動きには、前述のフードハブ・プロジェクトや、高校プロジェクトがあります。
「小さなものと小さなものをつなぐ」をコンセプトに、生産の現場と食べる場をつなぎ、地域の農業や景観を維持していく。そんな事業計画をもとに、白桃薫さんと真鍋太一さんが中心になって立ち上げたのが、株式会社フードハブ・プロジェクト。
地元の食材を用いた「かま屋」と焼き立てパンやこだわりの食品を置いた「かまパン&ストア」をオープンしました。
加えて同じ会社内で新規就農者の育成、耕作放棄地の活用、農作物の生産販売と、数年間の試行錯誤がありながらも、創業から6年後の今では経営も軌道にのっています。営利活動だけでなく、保育所から高校までの子どもを対象に食農プログラムなどの活動も活発に行われています。
(「フードハブ・プロジェクト」についてはこちらの記事でも紹介しています)
もう一つ、目に見えて変化があったのは学校です。神山には徳島県立城西高等学校の分校にあたる神山校があります。
農業高校なのでもともと学科は「造園土木科」と「生活科」の2科。それを公社の森山さんが高校の先生、町役場や地域住民とで話し合う場を設け、「環境デザイン」「食農プロデュース」コースに再編成。
「神山創造学」という地域学の創設や県外遠方生向けの町営寮「あゆハウス」の設置、入学前の滞在プログラムの実施など、地域と学校の関係づくりを進めてきました。
結果、町内からも県外遠方からの入学希望者も増えて、これまでは定員割れに近かった状態が、定員を上回るほどになっています。
第1期のこの戦略(2016〜2019)の成果は、人口面では目標にしていた年44人、4年間合計176人に対して、結果が161人、91%を達成(*5)。大事なのは数字だけでなく、ここで始まった施策により、住まいや学校、新規就農者を受け入れる体制など継続的に人を呼ぶしくみが生まれたことです。
目に見えて成果の出た分野もあれば、あまり進まなかった分野もあります。「しごとづくり」や高齢者の生活を支える「安心な暮らしづくり」の面は次の期の戦略に引き継がれました。
2020年度末に第2期の戦略が公表され、新たな実施が始まっています。
■「私らより神山のことを思ってくれとる」町民向けの町内バスツアー
こうした数々の取り組みを、まちの人たちすべてが自分ごと化できているわけではありません。ですが町民に広く共有するための試みも行われ、手応えが得られたのが、町民向けの町内バスツアーでした。
杼谷さん「たとえば新しい店ができて報道されても、お孫さんから電話があった時に『おじいちゃんは行ったことないから知らんわ』となってしまう。そこでまずは知ってもらう、来てもらう機会をつくろうという話になりました。」
これが予想をこえて評判に。年配者が地区や同窓会の仲間同士で申し込み、町役場とつなぐ公社のスタッフが一日かけて案内します。新しくオープンした店や取り組みを見学し、活動者の話を聞いたり、みなで食事をしたり。
杼谷さん「これがね、伝わり方が全然違うんです。現場を見て、雰囲気を感じて、当事者から話を聞くと。
最初は『移住者が来て何をしよるんやら分からんから、自分の目で見に来た』というような人が多いんです。それが帰り際には、『わざわざ神山に来てくれてみんな一生懸命頑張っとる』『私らより余計に神山のことを思ってくれとるのがようわかった』と。
『また来たい』『自分たちができることはないか』と変わっていきます。」
西村さん「発芽環境さえ整えれば、出てくる芽は出てくるんです。出てこなかったらそれは仕方ないけれど。よそからタネを持ってくるより、その土地にあってまだ発芽していないものが芽ぶく方がいい。
私は今回はたまたま役場と一緒にそんな場をつくる機会をもらったけれど、大南さんたちはずっとそういうことを大事にして、神山で育ててきたんだと思います。」
つなプロから生まれた芽は、枝を伸ばすごとに、計画づくりには直接関わっていない人たちともつながり協業しながら広がっています。その結果「可能性のあるまち」に近づき、人が人を呼んでいる。
20年後の未来を考えるとき、その世界をつくるのが誰か?という話は、この先ほかの地域にとっても大事になるのではないか。そう気づかされる取材でした。
神山町では、引き続き、創生戦略の第2期に入っていて、プロジェクトは進行中です。
(*1)一般的には「地方版総合戦略」と呼ばれるが、神山町では「創生戦略」と名付けている。
(*2)総合計画の基本構想は各市町村で定期的に定めることが地方自治法で義務付けられていたが、2011年より法的な策定義務がなくなり、今では総合計画をつくらない市区町村もある。
(*3)西村さんはリビングワールドというご本人の会社で、デザイン・プランニング/ディレクション、ワークショップや教育プログラムを手がけている。
(*4)創生戦略をあえて「プロジェクト」という名前にした理由は、第2期の戦略に記されている。「「プロジェクト」は「試み」であり、経験のないことや結果が保証されていない物事に対する有機的な取組を指す」。
(*5)このうち85人は移住交流支援センターを通じて、35人はフードハブの立ち上げ、27人が集合住宅の入居者(2020年12月時点。その後71人に)、民家改修で9人、神山校の寮に9人が転入の要因。
参考:ウェブサイト『In Kamiyama』、『神山進化論』(神田誠司著)
※この記事は『SMOUT移住研究所』に同時掲載の(同著者による)連載「移住の一歩先を考える」からの転載です。