【どうして?数正!】なぜ石川数正は徳川家康の下を去り、豊臣秀吉の下へ行ったのか?
戦国時代は各地で群雄が割拠し、武士たちは生き残りを賭けて激しく争った時代です。当時は綺麗ごとだけではなく、生死を懸けた厳しい現実が待っていました。
時には苦渋の選択を迫られ、主家を裏切り敵対勢力に寝返ることも少なくありませんでした。裏切りには各人なりの理由があり、主家の没落や屈辱的な待遇などさまざまな背景があったのです。
一般的に徳川家臣団は忠義に厚く結束が強いと考察されており『どうする家康』でも同じような描写がされています。ところが、家康の懐刀とも呼ばれた石川数正が家康の下を突然離れていく事件が起こります。
石川数正と豊臣秀吉との出会い
石川数正は今川氏真との人質交渉で瀬名と信康・亀姫を救出して、交渉術を発揮していました。『三河物語』でも無事岡崎に帰還する様子が書かれています。 清州同盟の際にも、織田信長との交渉役に数正が抜てきされました。
このように多くの外交の場で使者として活躍しますが、その任務が皮肉にも豊臣秀吉との出会いに繋がっていきます。
『どうする家康』でも数正は秀吉に「ワシのところにきてくれないか?」とヘッドハンティングを受けていました。この秀吉という人物は、有能な人材に会うと積極的にヘッドハンティングを仕掛けており、全国で名をはせた武将たちが数正と同じようなことを言われていたそうです。
数正と秀吉が初めて会ったのが【賤ケ岳の戦い】の祝勝会の席でした。家康が徳川家の代表として派遣したのが石川数正だったのです。それ以降【小牧・長久手の戦い】の戦後処理などで秀吉と家康の仲介役になる機会が増えました。
しかし、1585年11月に石川数正は徳川家を出奔し、秀吉の下へ向かって行くのです。
石川数正の徳川家・出奔の理由
出奔の理由は明確には分かっておらず、この事件は多くのメディアが独自に脚色して取り上げています。 『どうする家康』でも描写されると思いますから、どのように解釈されているか楽しみですね。
では、現在どのような出奔理由が出ているか紹介していきましょう。
松平信康切腹事件が原因
家康が浜松へ移る際、岡崎で長男・信康の後見人として任命され、同時に西三河衆をまとめる旗頭として実質的に岡崎の政務を担当しました。
信康の切腹事件については諸説ありますが、信康と石川数正を支持する岡崎派と前線で戦う浜松派との対立が背景にあったと考えられています。この事件を契機に家康との仲がギクシャクして、数正の徳川家の立場が無くなったという説です。
徳川家康と豊臣秀吉との板挟みが限界だった
これは家康と秀吉のはざまで疲弊し、数正が家康を見限って秀吉に味方したという説。
数正が【小牧・長久手の戦い】に関わる交渉を行う中で、現状を知らずに交戦を主張する本多忠勝や榊原康政など家臣団と対立色が強くなり、家康の下を去ったと言われています。
さらに、秀吉が家康に上洛するよう要求した際、数正が仲介役として何度も東海道を往復するも成果をあげることができず、その状況に嫌気がさして家康の下を離れたという説も存在します。
家康の命令で豊臣家へスパイとして潜入
徳川家康の命を受けて豊臣家のスパイとして家臣となった説です。
つまり数正は家康を裏切ってはおらず、同意の上で豊臣家に行ったとされています。 ハッキリとした出奔の理由が謎である事から、歴史好きの間でもこのスパイ説を押している人も多いそうです。
個人的にもスパイ説は面白いと思っているので推したいのですが、創作の可能性が高いとも言われています。
石川家における嫡流争いに敗北
数正が叔父の石川家成との嫡流争いに敗れたという説もあります。
この説では数正の父が1563年の【三河一向一揆】で家康を裏切り、これが原因で石川家の嫡流は数正の叔父・家成が継ぐことになりました。
数正も一揆では家康を裏切ることなく、その後も徳川家で岡崎衆をまとめ上げるまでの実力を示しました。しかし、家中でどれだけ出世しても石川家の嫡流はあくまでも叔父・家成でした。自分が正当な石川家の嫡流と示すために、徳川家以外の勢いのある豊臣家に仕えることで自身の系統の正当性を示すために出奔したと考えられています。
しかし、江戸時代になると数正の子は藩主として残りますが、その後は改易されています。一方で、叔父の家系は幕末まで続いたことから、この説が本当であれば数正の思惑通りにいかなかった事になります。
考察すればするほど謎が深まるばかり…
【三河一向一揆】では、家臣団が二つに分かれる状況が生まれました。
本多正信が一揆側についた一方で、本多忠勝と石川数正も改宗して家康に対する忠義を示しました。 こうした状況から『信仰を超える家康への忠義があるのに家康を裏切る可能性があるのだろうか?』という疑問が浮上します。
信康事件後は、岡崎城の城代として岡崎の政務を取り仕切っていました。小牧・長久手の戦いの戦後処理を含む交渉も石川数正が主導して任務にあたっていました。
このことから、家康本人も数正に絶大な信頼を寄せていたことがうかがえます。
やっぱり、石川数正は自らを犠牲にして豊臣家へ行ったのでしょうか?
この話だけでもドキュメント番組が出来そうですが、私は楽しく想像力を膨らませてドラマの展開を楽しみにしておきましょう。