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強すぎるがゆえ――史上最強の棋士・羽生善治九段(50)勝ちの局面で投了し豊島将之竜王(30)に敗れる

松本博文将棋ライター
(記事中の画像作成:筆者)

 12月25日。大阪・関西将棋会館においてA級順位戦6回戦▲羽生善治九段(50歳)-△豊島将之竜王(30歳)戦がおこなわれました。棋譜は「名人戦棋譜速報」などをご覧ください。

 朝10時に始まった対局は深夜0時44分に終局。結果は128手で豊島竜王の勝ちとなりました。

 リーグ成績は豊島竜王4勝2敗、羽生九段2勝4敗となりました。

あまりにも劇的な一局

 羽生九段が投了して、豊島竜王の勝ち。

 本局を一言でまとめればそういうことになります。

 しかしそこに至るまでの過程は、とても一言で言い表すことはできません。

 朝から順にたどってみましょう。

 羽生九段先手で、戦型は横歩取り。羽生九段は飛車を引き戻さずに戦う「青野流」を採用しました。

 豊島竜王は妥協することなく、激しい順に飛び込みます。これは▲藤井聡太二冠-△豊島竜王戦(JT杯)という前例に沿った手順です。

 ▲藤井-△豊島戦は、最終的には豊島竜王の勝ちとなりました。しかし早指しということもあって、勝敗が決するまで、形勢は二転三転しています。

 昼食休憩に入る直前の38手目。豊島竜王は前例と違う桂跳ねを選びます。ここからは未知の戦いとなりました。

 午後に入ってからも激しい順は続きます。羽生九段が慎重に考えて指し進めるのに対して、豊島竜王はほとんど時間を使いません。これはよほど深い事前研究があるものと推察されます。

 45手目まで進んだ段階で、持ち時間6時間のうち、消費時間は羽生九段3時間6分。豊島竜王はわずかに16分でした。時間には大きく差がついています。さらには流れも豊島ペースのように見えました。

 豊島竜王はここで貯めていた時間を使います。長考に沈むこと、2時間27分。的確な組み立てで羽生陣にスキを生じさせ、一段目に飛車を打ち込みました。

 羽生九段が51手目を指した局面では、豊島竜王がリードしているようです。そこで豊島竜王は次の手を指さず、18時、夕食休憩に入ります。これもまた巧みなペース配分に思われました。

 40分の休憩時間をはさんで、さらに読みを入れた豊島竜王。盤上中央に桂を打って、羽生陣を上部から攻めます。上下からのコンビネーションで、羽生玉は受けが難しくなりました。

「うーん」「そうか」「いやー」

 羽生九段からはそんなつぶやきが聞かれました。

 羽生九段は1時間10分を消費。そして53手目、自陣を受けず、相手の桂を取りながら相手陣一段目にと金を作りました。リスクは承知の上での勝負術なのでしょう。

 豊島竜王は強力な下段の龍(成飛車)で、羽生玉を中段に追い上げます。

 コンピュータ将棋ソフトが示す評価値は、豊島竜王が勝勢であることを表していました。

豊島竜王勝勢

 昨日のB級1組は、千日手指し直し局もあって未明にまで及ぶ戦いでした。しかし本局は意外な大差がついているようにも見えます。

「将棋は逆転のゲーム」

 とはよく言われます。本局の前例となっている▲藤井-△豊島戦は早指しで、時間がほとんどない中、逆転、また逆転となりました。

 しかし本局は持ち時間6時間の順位戦。深夜に残り時間が切迫していれば別ですが、勝勢の豊島竜王が1時間以上も残しています。ならばもう、逆転はないのではないか。

 前夜のB級1組順位戦は未明に終わりました。

「今日は早く終わりそうかな・・・」

 正直なところ、筆者はそう思っていました。

「早く終わりそう」という予想はたいていの場合はずれる。それが筆者の経験則です。それはよくわかっているつもりでした。しかし、さすがにこの将棋は逆転する余地はないのではないか――。

 もちろん、将棋は勝ち切るまでが本当に難しい。上級者ほど、それが骨身にしみてわかっているようです。

 豊島竜王は、慎重に熟慮に沈みます。実力がある上に決して楽観せず、優勢であれば慎重に勝ちにいく姿勢なわけですから、なるほど、現棋界四強の一角を占めて勝ち続けるわけです。

「早く飲みに行きたいから、早く決めてやれ」

 古い時代の将棋界では、そうして指した手がまさかの大悪手で逆転、みたいなエピソードはしばしば聞かれました。しかし現在の将棋界では、そんな話はほぼないようです。

 関西将棋会館の外からは時おり、人が叫ぶような声が聞こえてきます。コロナ禍の中とはいえ、今日はクリスマス。にぎやかに過ごす人もいるのかもしれません。

 やがて外は静かになりました。

 豊島竜王は58分考えました。そして歩をじっと一つ前に進めます。羽生玉に詰めろをかけました。

 羽生九段は桂を打って豊島玉に王手をかけます。すぐに逃げる豊島竜王。飛角と2枚の大駒を羽生九段に持たれていますが、豊島玉は簡単には寄りません。

 羽生九段は自陣に飛車を打ちつけて粘ります。

 相手陣に打って、相手玉への攻めに使いたい大切な飛車を、さほどはたらきなく自陣に打たされるのでは、もう勝負も終わりの段階ではないか。筆者の素人目には正直なところ、そう映りました。

 対して豊島竜王は、いつも通りというべきか、誤る気配が感じられません。

 羽生玉は詰まないものの、駒を取られながら、一手一手の寄りとなります。

 羽生九段は小さな瓶の栄養ドリンクをあけて飲みます。

「羽生先生、残り1時間です」

 記録係から声がかかりました。羽生九段は頭に手をやります。

 75手目。羽生九段は王手をかわしながら、四段目に玉を逃げます。よく見れば羽生玉は「打ち歩詰め」の形となっていました。

土俵際の羽生九段、打ち歩詰めでしのぐ

 最後に歩を打って、玉を詰ませてはいけない。

 どういう理由でこんな謎ルールが制定されたのかは、実のところ誰も知りません。しかしその「打ち歩詰め」の禁じ手が存在することによって、ただでさえ面白い将棋が、さらに面白くなります。

 打ち歩詰めが実戦で生じることはめったにありません。しかしそのごくわずかなレアケースで、思わぬドラマが生まれる場合もあります。

 有名なのは2008年竜王戦七番勝負第4局、渡辺明竜王(当時)-羽生挑戦者戦でしょう。

「初代永世竜王」の座がかかった歴史的なシリーズで、羽生挑戦者は開幕から3連勝。竜王復位まであと1勝と迫っていました。そして第4局でも優位に立ち、渡辺竜王を追い詰めます。しかし最終盤。渡辺玉はなんと打ち歩詰めで逃れていました。窮地をしのいだ渡辺竜王は第4局で逆転勝利。その後は将棋七番勝負史上初の3連敗4連勝を達成して、竜王防衛を果たしています。

 本局。打ち歩詰めのルールは、羽生九段に味方をしました。豊島竜王がもし歩を打って王手をかければ、たちまち反則負けです。もちろん豊島竜王がそんなミスをするはずはありません。しかし羽生玉は、相撲でいえば土俵際、徳俵でこらえる形となりました。

「強い人の玉は生命力が強い」

 しばしばそんな言い方もされます。その生命力の強い玉で数々の修羅場をくぐり抜けてきたのが羽生九段です。

 豊島竜王は羽生九段の角をただで取りました。羽生玉が打ち歩詰めの状況は変わらず、すぐに詰みはありません。しかし依然、豊島竜王勝勢の情勢であることにも変わりはありません。

 77手目。羽生九段は歩を打って豊島竜王の龍にあたりをかけました。残り時間は羽生53分、豊島42分。

 将棋は強者を相手に勝ち切るまでが本当に大変です。観戦者には勝勢に映る情勢の中、豊島竜王が時間を使って考え続けているのがその証拠でしょう。

 残り25分。20分。15分。記録係が残り時間を知らせる声が対局室に響きました。

 豊島竜王は31分を使って、龍を四段目に逃げました。残りは11分。時間に余裕があった序中盤から一転して、時間切迫の最終盤を迎えることになりました。

なんどめだ、羽生マジック

 羽生陣三段目、横によく利いていた豊島竜王の龍は四段目にそれました。羽生玉に生じていた打ち歩詰めの形は解消されます。一方で羽生玉には三段目から下段に逃げるルートが生じました。

 形勢は依然豊島よし。ただしわずかに羽生九段が差を詰めた形となりました。

「いやいやいやいや・・・」

 そんなつぶやきが漏れる中、羽生九段は79手目、12分を使ってと金を寄せます。53手目、自陣を受けず、勝負と作ったと金が、まさかこの場面になってはたらいてくるとは。

 残り10分を切った豊島竜王。記録係からは忖度も容赦もなく、淡々と秒読みの声がかけられます。

 4分を使って、残り7分。豊島竜王は金で相手のと金を払いました。

 羽生九段は3分を使って豊島陣に角打ち。豪快なハードパンチをぶちこみました。猛烈に追い上げる羽生九段。こうした光景を、私たちはこれまで何度見てきたことでしょうか。

 絶体絶命と思われたところから、羽生九段はついに勝負形にまで持ち込みました。なんという強さでしょうか。

 難解な終盤に引きずり込まれ、刻々と時間を削られていく豊島竜王。ソフトは金をただで取らせる常識はずれな順を最善として示しています。

 豊島竜王は3分を使って、打たれた角を取ります。これはもっとも常識的な応手です。しかしその常識的な手でついに逆転したのであれば、将棋というゲームはあまりに難しいし、羽生九段が強すぎるということになるでしょう。

 ソフトの評価値はついに大逆転。形勢は豊島竜王勝勢から一転して、羽生九段優勢となりました。

 打ち歩詰めでこらえて大逆転――。

 そんな作ったような、劇的な話があるのでしょうか。

 しかし羽生九段は、現代を代表する強者の一人である豊島竜王を相手に、そうしたドラマを現実に起こしたわけです。

双方秘術を尽くした最終盤

 豊島竜王が流れを悲観して意気消沈していれば本局は、まれによくある羽生九段の大逆転劇として終わったことでしょう。

 しかし豊島竜王もまた今年、何度も大逆転劇を演じてきました。

 84手目。豊島竜王は攻防の角を放ちます。残り時間は羽生38分。豊島3分。時間が切迫する中、豊島竜王は明快な勝ち筋を与えぬまま、秘術を尽くして戦い抜きました。

 比較的時間に余裕のある羽生九段は考えます。

「いやー」

 そんなつぶやきのあと、桂を打って打たれたばかりの攻防の角を攻めました。残り時間は38分から19分へと削られました。

 豊島竜王は1分を使い、相手の成桂にただで取られるところに銀を引きます。これもまた、創作次の一手問題で見るような筋。超絶技巧を駆使して、羽生九段を楽にさせません。

 羽生九段は駒を取りながら、着実に豊島玉を寄せていきます。

「豊島先生、これより一分将棋でお願いします」

 豊島竜王はついに持ち時間6時間を使い切って、あとは1手60秒未満で指す「一分将棋」に追い込まれました。

「50秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」

 そこまで読まれた豊島竜王。98手目、受けに使いづらい駒である桂を自陣一段目に打ちました。これもまたさすがの粘り方でした。

「羽生先生、残り10分になりました。秒読みはどうされますか?」

 羽生九段の残り時間も削られていきます。とはいえ、いよいよついに、羽生九段の勝ちがはっきりしてきたようにも見えました。

評価値ジェットコースター

 早く終わるかもしれないという予想は、完全にはずれました。本局もまた前日の順位戦同様、日付を超えても決着がつきません。

 113手目。羽生九段は相手の角を取って決めにいきました。勇気を出して踏み込んだと思われる順。しかし、途端にソフトの評価値は逆転しました。

 よくもわるくも現代の多くの観戦者は、あまりにも強くなったコンピュータ将棋ソフトの形勢判断や候補手を横目で見ながら、盤面の推移を追っています。二転三転の終盤戦では、評価値やそれに基づく勝率の数値は、ジェットコースターのように激動します。

 ただし羽生九段が角を取った手については、ソフトは読み進めていくうちに判断を変え、最終的には好手と判定しました。そうしたことも、まれにあります。

 120手目。豊島竜王は羽生陣の飛車を取って、下駄を預けました。いよいよ本局も最後のクライマックスシーンを迎えます。

 羽生九段も最後の1分を使いました。そしてここからは両者ともに「一分将棋」です。

 121手目。羽生九段は王手で角を打ちます。豊島玉に詰みはありません。しかし絶妙の攻防手があって、羽生九段の勝ち。ソフトはそう判定していました。

 126手目。豊島竜王は馬(成角)の王手に飛車を打って合駒としました。今度は豊島竜王の側が不本意な自陣飛車を打たされた格好です。

 羽生九段、94パーセント。

 ABEMAの中継画面に表示されている「勝率」は羽生九段がベストの手を指せば勝勢であることを示しています。

 ベストの候補手は「同馬」。羽生九段が合駒されたばかりの飛車を馬で取り、そのあとで当たりになっている自陣の金を引けば勝ち。ソフトが瞬時に示した結論は以上の通りです。

 ただし、それはなかなか指しにくい順にも思われます。相手に強力な角を渡しながら、手順に守りの桂が中段に利いてくるからです。

 ソフトが勝ち筋ありと示していることと、最終盤の一分将棋の中で、対局者が勝ちの順を見つけられるかどうかは別の問題です。

 竜王戦第3局。ソフトが示していた絶妙の勝ち手順を羽生九段が見つけられなかったということもありました。

 現代の観戦者は常にソフトの判断を参照することができます。だから対局者がそれを見つけられない際にはどうしても「逆転」と感じてしまいがちです。

 実際、将棋の真理の上では「逆転」と言っても間違いはないでしょう。

 しかし様々な制約がある人間同士の勝負の上では、そう簡単に言い切れないことも多いわけです。

「50秒、1、2、3、4、5、6」

 127手目。羽生九段が秒読みの中で指したのは、相手の飛車を取る攻めではなく、自陣の金を一つ右に寄せる受けでした。ABEMAでは2番目の候補手として表示されていた手です。

「将棋は悪手の海の中を泳いでいくゲーム」

 そんな言われ方もされます。時には数百にも及ぶ指すことが可能な手の中で、正解手はわずかに1つだけということもよくあります。本局の最終盤は、まさにそういう状況でした。

 いくつもの候補手の中で、127手目の正解手はただ一つしかありませんでした。

 豊島竜王、94パーセント。

 勝率表示は真逆になりました。羽生九段は第2候補の手を指しながらも、逆転を許したことになります。

 Twitter上で本局を振り返って「羽生九段」「豊島竜王」などのワードで検索してみると、観戦者からは、ジェットコースターに乗せられているかのような、絶叫に近い悲鳴がつぶやかれているのがわかります。筆者もなにかを叫んでいたうちの一人です。

 瞬時の間にさまざまなことが起こりすぎ、事態を把握できず、なんだかもうついていけない。しかし豊島竜王がベストの手を指せば勝勢ということだけは表示されています。

 その最善手とは、飛車先の歩を突く羽生玉への王手でした。なんと合駒に打たされた飛車がはたらいて、見事に豊島勝ちとなるようです。

「50秒、1、2、3、4、5、6、7、8」

 128手目。豊島竜王が指したのは、歩を突いての王手ではなく、相手の戦力を削りながら持ち駒に金を加える手でした。これもまた第2候補として表示されていた常識的な指し手。しかしこの場面でもまた、正解は1つしかなかったようです。

 羽生九段、95パーセント。

 勝率表示を見れば、またまた逆転です。もういったい、何がどうなっているのか――。

 本局をリアルタイムで見ていた筆者は最終盤、最終的にどのような結末を迎えようとも、本局が後世に残るような名局になったことは確定したものと思っていました。

 対局者は常に最善手が指せているわけではありません。しかし当代のトップクラス同士がその持てる技量のすべて、死力をふりしぼって戦っているのだけは伝わってきます。

 そして最後の結末は、誰にも予想できないものでした。

羽生九段、勝ちの局面で投了

 129手目。羽生九段のベストは、馬(成角)で相手陣の飛車を取る手でした。そのあとで自陣の銀を取る手がなんと「詰めろ逃れの詰めろ」。中段の羽生玉はいかにも詰まされそうですが、きわどいながらも詰まず、逆に豊島玉は受けなし。もしそう進めていれば、難解ながらも、羽生九段の勝ち筋だったようです。

 羽生九段はそう指しませんでした。では観戦者が絶叫する中、あるいはかたずをのんで推移を見守る中、羽生九段は代わりに何を指したのか。

「50秒」

 そこまで読まれたところで、羽生九段はすっと上体を起こしました。羽生九段の手は盤上に伸びません。

「1、2」

 羽生九段は何も指しませんでした。代わりに一礼。

「負けました」

 羽生九段は129手目を指す代わりに、投了を告げたのでした。

 羽生九段、94パーセント。

 画面上からはその勝率表示が消えます。代わりに映されたのは、

「128手で豊島将之竜王勝利」

 という事実経過を表す文字でした。

 何がどうなっているのか、まったくわからない――

 ほとんどの観戦者が、呆然としながらそう思ったことでしょう。

 結論だけを言えば、羽生九段は勝ちのある局面で投了したことになります。

 史上最強とも称されるレジェンド羽生九段にいったい何が起こってしまったのか――

 勝ちがあるのに投了するという例は、過去のプロ公式戦でも、ごくまれに見られます。

 たとえば2017年度C級2組最終戦、神谷広志八段-増田康宏五段(現六段)戦。増田五段にとっては勝てば昇級という大一番でした。それが千日手となり、指し直し局が終わったのは深夜2時7分。増田玉に長手数ながら詰みが生じていたところで、神谷八段は次の手を指さず、投了しています。

 投了すれば負けなのだから、とりあえず相手玉に王手をすればいいではないか。そして王手をしているうちに、何か勝ちが見つかるかもしれないし、相手が間違えるかもしれないではないか。

 そうした考えには至らないところが、プロのプロたるゆえんかもしれません。

 羽生九段にとっては本局はちょうど2100局目でした。通算成績は1474勝624敗2持将棋(勝率0.703)。その羽生九段の敗戦の中で、勝ち筋がありながら投了してしまった例を、筆者は知りません。

 しかし負けではないのに、投了したという例であれば示すことはできます。

 2017年王座戦五番勝負第1局、羽生善治王座-中村太地六段(現七段)戦。185手に及ぶ大熱戦の末、羽生王座は自玉が受けなしと見て投了しました。しかしそこで受けに桂を打っていれば自玉は寄らず、以下両者が最善を尽くせば千日手で引き分けになっていたようです。

 どれほどの大棋士であっても、長い勝負人生の中では、さまざまなことが起こります。

「羽生もついに衰えたか」

 史上最強の羽生九段であっても、過去に何度そう言われてきたかわかりません。

 本局。羽生九段は強いがゆえに、判断がつかないところで次の手を指すことなく、投了を告げました。

 筆者の個人的な感想としては、本局の結末をもって、羽生九段の力に衰えが見えたということにはならないと思われます。また、仮に勝ちがある局面で投了したからといって、羽生九段の名誉が傷ついたということにもならないでしょう。

 むしろ、あの絶望的に見えた局面を打ち歩詰めで持ちこたえ、逆転にまで持ち込んだところなどは、まさに史上最強の棋士の底力を見せつけられたように思われました。

 感想戦でも投了の局面では羽生九段に勝ちがあったという結論が出たようです。詳しくは『朝日新聞』『毎日新聞』掲載の観戦記に記されるでしょう。

 繰り返しとなりますが、なんとも劇的な一局でした。

 コロナ禍で暗い世相だったこの一年。年の瀬のクリスマスの夜にも、盤上で予想もつかないドラマを繰り広げ、世界中の将棋ファンをうならせた羽生九段と豊島竜王には、畏敬と感謝と念よりありません。

 豊島竜王はこれでA級順位戦4勝2敗。名人挑戦権争いに踏みとどまりました。

 一方の羽生九段は2勝4敗。A級・名人あわせて連続28年のレジェンドも、年明けからの3局は、まず残留を目指しての戦いとなりそうです。

 両者の対戦成績は、これで羽生九段18勝、豊島竜王22勝。羽生九段から見て4番の負け越しとなりました。羽生九段が30局以上対戦している16人の棋士の中で、唯一負け越しているのは、豊島竜王、ただ一人です。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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