落馬、転倒から一年経たずして海外重賞制覇した馬と、その担当者の物語
一般家庭から馬の世界へ
「死んでしまったか……」
動かなくなった白い馬体をみて、池本啓汰はそう思った。
その後、物語が思わぬ方向へ転がるとは考えもつかず、涙が溢れた。
1994年5月生まれの28歳。兵庫県加古川市で三人兄弟の次男として育てられた。競馬とは無縁の家庭だったが、実家の裏に牧場があった事だけが、彼を馬の世界へいざなった。
「大浦牧場という小さな牧場でしたが、ポニーがいて、よく遊びに行きました。当時は体が小さかったので、騎手になりたいと考えていました」
中学生になると、体が大きくなり、騎手は断念した。しかし、馬の世界で働きたいという気持ちは持ち続けたため、卒業と同時に「馬の学校 アニマル・ベジテイション・カレッジ」に入った。
「通信制の高校で勉強をしながら、本格的に馬乗りを教わりました」
2013年3月にアニベジを卒業すると、4月から大山ヒルズで働いた。
「自分の都合で半年ほどしか在籍出来ませんでしたが、その間にキズナがダービーを勝ちました。そんな雰囲気を味わえたのはまたとない経験だったし、毎日、沢山の馬に乗せていただき、感謝しかありません」
同年10月には競走馬総合研究所・常磐支所に移った。
「いわゆる“馬の温泉”と呼ばれる施設で怪我した馬の治療やリハビリが中心でした」
「ここで得た知識や経験が現在は活かされている」と言うが、当時は乗りたい気持ちが強く、新天地を求めようとした。そんな15年の暮れ、競馬学校に合格。翌16年に卒業すると、栗東トレセン入りを果たした。
「最初は加藤敬二厩舎で調教助手をして、厩舎が解散した18年の3月から池江泰寿厩舎に移りました。以前から池江厩舎の方に面倒をみてもらっていた事もあり、調教師に拾っていただきました」
天皇賞でアクシデント
池江厩舎に来て間もなく、デビュー前の芦毛の牡馬を任された。
「新馬から担当するのは、トレセンに入って初めてでした」と語るその馬がシルヴァーソニックだった。
オルフェーヴル産駒という事で、気難しい面がないか気をつけた。ところが、馬房でも、跨っても静かだった。
「それで気を抜いたわけではないですが『オルフェーヴル感はないな……』と思ったところ、運動が始まるなり急にスイッチが入り、初日から落とされました」
血は争えなかった。しかし、そんな難しさだけではなく、力も受け継いでいた。
「誰が乗っても『良い馬』と言ってくれました。実際、能力は高く、徐々にですが軌道に乗ってくれました」
5歳になった21年6月には準オープンを勝ち、オープン入り。その後、同年のステイヤーズS(GⅡ)3着、22年阪神大賞典(GⅡ)3着等を経て、天皇賞(春)(GⅠ)に駒を進めた。
「春はいつも調子が上がるのですが、この時はデビュー以来最高と思えるくらい調教でも動いていました」
当該週には、馬房で捕まえようとすると、立ち上がって逃げようとしたが「それもむしろ調子の良い時に見せる素振り」と思うと、期待が高まった。
「それにつれてモノ凄く緊張しました。レース当日のパドックで曳いている時も、吐いちゃうかと思うくらいでした」
ところが、競馬は呆気なく終戦を迎えた。前扉が開きスタートが切られると同時に落馬。シルヴァーソニックは騎手を乗せないまま、馬群を追走した。
「ゲートまでついていき、スタートを見守ったのですが『あ!!』という声が聞こえたと思ったら、カラ馬で走るシルヴァーソニックが見えました」
その刹那、頭が真っ白になり、動けなくなった。
「他の厩務員さんに抱えられながらバスに乗り込んだのだけは覚えています」
下馬所まで戻るバスの中に設置されたテレビ画面を見ると、カラ馬のまま、まるでレースに参加しているように走る相棒の姿が見えた。そして、レースが終わり、バスから降りた瞬間、スタンドが「ワッ!!」と湧いた。
「何が起きたのかと思って、見ると、1~2コーナーの間のラチの外へ飛び出して横たわるシルヴァーソニックの姿が見えました」
父同様、ラチに激突すると、そのまま横になってしまったのだった。
慌ててシルヴァーソニックの所まで走った。とはいえ距離があるので、なかなか現場に辿り着かない。その間も横たわる芦毛の馬体はピクリとも動かない。
「死んじゃったかと思うと、涙が溢れました」
肩を落とし、ようやく愛馬の近くまでいき、泣きながらいつものように呼び掛けた。
「シルヴィー!」
すると、信じられない事が起きた。それまで微動だにしなかったシルヴァーソニックが、何事もなかったように立ち上がったのだ。
初重賞制覇から海外へ
「死んでいなかったと思うと、ただただ嬉しかったです」
すぐに馬体をチェックした。すると、出血もなければ、歩様も問題なかった。安堵の念が強くなると、同時に思った。
「何でずっと横たわっていたんだ?!」
そう感じたのはファンも同じだったようで、この後、池本の下には多くのファンレターやお守りが届いた。そんな願いが通じたか、シルヴァーソニックはすぐに復調した。目黒記念(GⅡ)こそ骨瘤が出て回避したが、秋にはステイヤーズS(GⅡ)を優勝。馬にとっても、担当する池本にとっても初めてとなる重賞制覇を飾ると、今春、勇躍サウジアラビアへ遠征。レッドシーターフ(GⅢ)に挑んだ。
「長い輸送があったのに、サウジに着いた初日から獣医に馬っ気を出して襲い掛かろうとしました。そんな事もあり、皆に『クレイジーホース』と呼ばれるようになりました」
それでも状態は間違いなく良く感じた。枠順抽せんで最内1番枠を引くと、思った。
「勝てる!!」
実際にスタートを決めると、その思いは強くなった。
「道中、狭くなった時だけ少し心配したけど、開いたらスーッと伸びたので、後は安心して見ていました」
天皇賞の悪夢から1年と経たずして、海外重賞を制覇するまでになった事を思うと「鳥肌が立った」と言う。
「そんな時、池江先生から『よく頑張ってくれた。ありがとう』と声をかけてもらえました。厩舎に拾ってもらって感謝しなくてはいけないのは僕の方なので『ありがとうございました』と返しました」
海の向こうまで持って行ったモノとは?
レース後のシルヴァーソニックを曳く池本の胸ポケットには、天皇賞の落馬後に届いた幾つものお守りが全て納められていた。
「ファンレターも全部、現地に持って行っていました。皆さんの応援のお陰で勝てたと思っています」
既に帰国したシルヴァーソニックの次なるターゲットは天皇賞(春)。昨年の雪辱を期す舞台を前に、池本は思う。
「勿論、そうなれば最高ですし、そうなるように尽力します。ただ、あくまで一番大切なのはシルヴィーの状態だと考えています」
“人間の都合で無理をさせるわけにはいかない”という想いを“お守り”と一緒に胸へしまい、池本は次のステージへと、臨む。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)