日銀が正常化に慎重となっていた要因のひとつとされる、2000年8月と2006年7月の日銀のトラウマ
日銀が金融政策の正常化にかなり慎重になっている背景として、政治からのプレッシャー、特にアベノミクス推進派からのプレッシャーがあったことが窺える。
それとともに日銀には2000年8月と2006年7月のトラウマがあったとされる。
2000年8月に日銀はゼロ金利政策の解除を決定した。しかし、この際に政府からの出席者は、議決延期請求権を行使したのである。議長提出の金融市場調節方針の決定に関する件に係る政策委員会の議決を次回金融政策決定会合まで延期すること」との議案が提出された。これは否決されたが、わだかまりが生じたことも確かである。
賛成多数で議長案のゼロ金利解除が決定された。反対者は中原委員と植田委員(現日銀総裁)であった。植田委員(当時)は、株式市場の動向等をもう少し見極めたいといった理由を述べていたが、その後に米国発のITバブルが発生した。
議長であった速水総裁がゼロ金利解除を先導しその際に、政治との対立姿勢を強めていたとされている。そもそもゼロ金利政策そのものは運用部ショックがきっかけだっただけに、長期金利の落ち着きとともにゼロ金利政策は解除したいとの意向は当然であった。
ちなみにこのときの首相は森喜朗氏であったが、森政権の反対を押し切って日銀がゼロ金利政策を解除したとされており、このときの官房副長官だったのが安倍晋三氏であった。2000年ゼロ金利解除を契機としてリフレ的な発想を強めたとされた。
そして、2006年7月14日にもゼロ金利政策を解除し、無担保コールレートの誘導目標値はゼロ%から0.25%に引き上げられ即日実施された。金利引き上げは2000年8月以来となった。このときの総裁は福井氏であった。
この際にも「極めて低い金利水準による緩和的な金融環境は当面維持」との日銀からの発表があった。
この際にも日銀総裁は少し揺れていた。福井総裁を巡る村上ファンドへの出資問題が出ていたのである。
議決の前に政府は議決延期請求権は行使していないが、財務大臣および経済財政政策担当大臣と連絡を取るため、会議の一時中断の申し出があった。実際に確認が行われていた。
政府からは「具体的な金融政策運営については日本銀行に委ねられており、政策変更については政策委員会のご判断にお任せしたいと考えている」との発言があった。
このときの首相は小泉純一郎氏であり、官房長官が安倍晋三氏であった。政府側としてゼロ金利解除に疑問を持っていた可能性はある。
そして、2006年7月14日の金融政策決定会合には、現在の内田副総裁が企画局企画役として出席していたのである。