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戦争を起こそうとするやつらに対して本気で怒れ。絵筆に込めた父の"アート×アクティビズム"

宮崎園子フリーランス記者
広島市内の四國五郎のアトリエには今も画材道具や作品が残されている(筆者撮影)

満州へ従軍し、シベリアに3年間抑留され、故郷・広島に戻ると、最愛の弟が原爆に命を奪われた現実を突きつけられるーー。戦争の理不尽さに対する怒りを絵筆に込め、反戦反核のための表現活動に戦後の人生を捧げた四國五郎(1924-2014)。長男がその生涯を一冊の本にまとめた。市民の平和運動の中に身を置き、ひたすら描き、書き続けた父の軌跡をたどった四國光さん(67)に、思いを聞いた。

四國光 しこく・ひかる 1956年、広島市生まれ。早稲田大学卒業後、電通入社。マーケティング局局長、ビジネス・ディベロップメント・センター局長などを歴任し、2016年に退社。NPO法人「吹田フットボールネットワーク」設立代表。

四國光さんと写真の中の父・四國五郎(筆者撮影)
四國光さんと写真の中の父・四國五郎(筆者撮影)

ーー『反戦平和の詩画人 四國五郎』(藤原書店)出版の経緯を教えてください

(『敗北を抱きしめて』で知られるアメリカの歴史学者)ジョン・ダワーさんが、父の展覧会を見て、応援してくださっているんです。世の中を変えるために美術と文学とをアクティビズムとして活用していった生き方が素晴らしいと。何度かメールでやり取りをする中で「実は父の評伝のようなものを書きたいと思っている」と書いたんです。

するとダワーさんが、様々なアドバイスをくださった。一つは、息子である僕が父をどう再発見していったかという過程と父の生きざまとを交錯させる形で書いていった方がいい、と。その方が読む人の方にもわかりやすくなると考えました。

四國五郎(四國光さん提供)
四國五郎(四國光さん提供)

四國五郎 しこく・ごろう 1924年、広島県生まれ。20歳で徴兵され、満州で従軍。敗戦後3年強のシベリア抑留を経験する。1948年11月に帰国後、峠三吉らとの「われらの詩の会」による「辻詩」や『反戦詩歌集』『原爆詩集』に絵や詩で参加。「広島平和美術展」の創設に携わったほか、NHKの「市民の手で原爆の絵を」運動に協力する。作・山口勇子/絵・四國五郎の『おこりじぞう』(1979)はロングセラー。著作に『四國五郎詩画集 母子像』(1970)、画文集『広島百橋』(1975)など。

幼い頃から絵の才能を発揮してきた五郎は、美術学校に進む夢を戦争で断たれた。戦後は広島市役所で働きながら平和運動に参画。峠三吉の詩、四國五郎の絵によって反戦のメッセージを描いた新聞紙大のポスター「辻詩」は、壁や電柱などに貼り出し、警察が来るとはがして別の場所に貼るということを繰り返し、大衆に訴えかける言論統制下のゲリラ的表現だった。売るためではなく平和運動に活用してもらうことを目的に、ひたすら制作を続けた。

「辻詩」の一つ。この作品は絵も詩も四國五郎が手がけている(四國光さん提供)
「辻詩」の一つ。この作品は絵も詩も四國五郎が手がけている(四國光さん提供)

評伝を書こうと思ってからしばらくノートに書き溜めてきたものがあったのですが、途中で僕が心臓の手術をすることになり、入院やリハビリが重なりました。その後新型コロナウイルスなどもあって、3年近く空白に。「さて、もう1回やろう」というときにはもうリセット状態でした。そうしているうちに、先ほどのダワーさんからのお言葉をいただき、全部書いた段階でもう1回構成し直したんです。そんなこともあって発案から6年もかかってしまいました。

四國五郎のアトリエに残る大量の資料(筆者撮影)
四國五郎のアトリエに残る大量の資料(筆者撮影)

ーー読み進めるにつれ、お父さんへの思いがぐっと強くなる感じがしました

書きながら思ったのは、子どもが知ってる父親像って家の中の父親だけど、社会的存在としての父親は、家の外の活動。父は、絵を描き、詩を書くことでいろんな活動を外でやっていた。実は、私は全然知らなかったんだなと。

広島市内に今も残る五郎のアトリエには、家族すらまだ全体像が掴めていないほどの膨大な量の作品、資料、書籍などが残る。光さんら遺族はこの10年近く、少しずつその整理を進めてきた。執筆活動はその作業と並行して行われてきた。

スクラップやスケッチが混じった四國五郎の日記帳(筆者撮影)
スクラップやスケッチが混じった四國五郎の日記帳(筆者撮影)

父の書き残したものを見たり、お付き合いのあった人たちから「こんなこと書かれてましたよ」といただいたり、そういうものを見てるうちに、父がこれほど本気だったんだと気付かされた。僕が思っていた以上に深い覚悟で描いていたんですね。

ーーでも、家で絵を描くお父さんをずっと見てきたんですよね

単に絵を描いているだけだと思っていたんです。本にも書きましたが、特に戦後の言論統制下のころの日記には「命を落としてもいい」と書いてある。シベリア抑留帰還者は、日本に戻って来ると、GHQ(連合国軍総司令部)にマークをされるんですね。特に父の場合、シベリアでの上級兵士による下級兵士の弾圧について参議院の特別委員会で告発している。だから、普通に考えたらマークされるわけです。だから、当時の日記とか見ると、突然キリル文字になったりしている。

四國五郎がシベリアからこっそり持ち帰った現地での記録「豆日記」(筆者撮影)
四國五郎がシベリアからこっそり持ち帰った現地での記録「豆日記」(筆者撮影)

実際に父の知る人は逮捕されたりしているから、そういう中で、実際の戦場を体験した者として、命を落としても仕方ないというぐらいの覚悟で描いていた。「お父さんは戦争に行った」ぐらいしか僕は思ってなかったけども、実際はものすごい凄惨な戦場、そして過酷なシベリアを生き延びた。

そして、広島に帰ってみたら、故郷がなくなり、最愛の弟が死んでいた。

肖像画とともに弟・直登への思いをつづった作品「弟への鎮魂歌(抄)」(四國光さん提供)
肖像画とともに弟・直登への思いをつづった作品「弟への鎮魂歌(抄)」(四國光さん提供)

五郎の三つ下の弟・直登は、1945年8月6日、臨時兵舎で被爆し、兵舎の下敷きになった。爆心地から約1キロ。家族の懸命の看護のかいもなく、22日後に死亡した。五郎は1948年にシベリア抑留から帰還し、その事実を聞かされた。

そういう体験をした人間だから、日本は何が何でも誤った道をもう一度歩んではいけない、ということにすべてを賭ける気持ちだったと思うんです。自分に何ができるかと考えたら、絵が描ける。そして、詩が書ける。それを使って反戦平和を叫び続けると覚悟したんです。そして、それを死ぬまで続けた。

2021年秋、広島県廿日市市で開かれた展示より、四國五郎の作品(筆者撮影)
2021年秋、広島県廿日市市で開かれた展示より、四國五郎の作品(筆者撮影)

そういう親父の思いを何もわかってなかったんだなって。一番身近にいた人間として書き残しておかなければ、歴史に埋もれて消えてしまう。それが本を出そうと思った理由の一つです。

ーーもう一つの理由はなんですか

やはりウクライナです。この数年間で、戦争の足音がひたひたと音を立てて近づいてきた。「戦争は知らないうちにどんどんやってきて、気付いたときはもう遅い」と父もよく言っていた。ひょっとしたら今はもうギリギリのところかもしれない。

父の作品を見つめる四國光さん(筆者撮影)
父の作品を見つめる四國光さん(筆者撮影)

五郎が死去した2014年、政府は集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした。翌年には、武器の使用基準の緩和や自衛隊の活動範囲拡大などを盛り込んだ一連の平和安全法制整備法案を可決。そして昨年、相手国の領域内のミサイル発射手段を攻撃する敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有を明記した安保3文書を閣議決定した。

どんどん外堀が埋められる状況になり、これはなるべく早く出した方がいいのではと思ったんです。主権者が「個」として何ができるか考えたとき、絵と詩というアートで抗議の声を延々上げ続けた父の考え方とか作品の中に、ひょっとすると戦争を止めるためのヒントがあるのでは、と。

額縁にまで文字を書き込んだ作品もある(筆者撮影)
額縁にまで文字を書き込んだ作品もある(筆者撮影)

日本は、日清戦争以降10年ごとに侵略戦争をやってきた、アジア最大の好戦的な国なのに、今は多くの人の知識にそれがないし、なるべく教えないような流れの中に今ある。非常に危険なことだと思います。

かつ、プライベートなことですが、僕も心臓が悪いからいつ死ぬかわかんない。『おこりじぞう』の朗読を続けてくださった木内みどりさんが急逝されたことも、人間はいつ死ぬかわからないんだなと考えるきっかけになりました。

被爆後、水を求めて死にゆく少女を前に、道端の地蔵が怒りの涙をこぼすーー。長く読み継がれる絵本『おこりじぞう』の朗読をライフワークとしていた俳優・木内みどりさん。2019年、五郎と弟・直登の日記をモチーフにした企画展のナレーション収録のため訪れていた広島で、急逝した。

ーーお父さんが残した、膨大な量の表現物を今見てどう思いますか

画家だけど詩も書いた、というわけでも、詩人なのに絵も描いた、でもない。同じ比率で、父は絵と詩という二つの表現をやってきた。最終的に両者を合体させた表現物を作ったんですが、絵は展覧会で見てもらえるけど、詩は本にしない限り知ってもらえない。

四國五郎の日記より。びっしりと文字やイラストで埋め尽くされている(筆者撮影)
四國五郎の日記より。びっしりと文字やイラストで埋め尽くされている(筆者撮影)

父は朗読詩をたくさん書いていて、みどりさんも読んでくださいましたが、そういうものは特に活字に残ってない。だから、それらもちょっと含めたいなと。詩集の役割も果たしたかった。結局、長い詩から短い詩まで合わせて18編入れました。

弟よ またきみの命日が来る

きみの逃れたみちを逆に

またひろしまの都心へ人々が行進する

もちろんきみも一緒に歩いてゆく

あらゆるスローガンをなみうたせて

血の沸騰したぬくもりが

靴底からはいあがる広島の鋪道を

敷きつめられた二十万の背すじをたどり

ひとつの流れになって集結するとき

弟よ

笑みをみせてこちらに合図をしてくれ

       ー『四國五郎詩画集 母子像』収録「弟への鎮魂歌」より一部抜粋

原爆だけじゃない。原爆は戦争の一部であって、戦争がダメなんだと。国家権力が戦争を起こすという、あの道を二度と歩まないために、個々人が何をすべきかを考え、父は自分ができることをやり続けた。自分の絵は、ギャラリーや美術館、個人宅の壁にかけて眺めておしまいではなく、反戦平和活動のために使ってほしいと。

シベリアで使っていた飯盒には、仲間たちの名前がびっしり刻まれている(筆者撮影)
シベリアで使っていた飯盒には、仲間たちの名前がびっしり刻まれている(筆者撮影)

ーー来年で生誕100年、没後10年。四國五郎の功績を再評価する動きがあります

今年開かれるものを合わせると、父の展覧会は28回。さまざまな方面から連絡をいただくので、作品を提供してきました。何かを感じ、それを多くの人と共有したいと感じてくださる方々が、活用してくれている。父も喜んでいるでしょう。

アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)やオーバリン大学が立ち上げた、日本の近現代史や日本文学を学ぶためのサイトの中で五郎の作品は公開されている。

美術界からは無視され、絵の上に詩を書くなんて邪道だと言われてきましたが、最近は若い美術史研究家の方々から、美術と政治、生活とまったく分けて考えるような歴史認識はおかしい、という意見も聞くようになり、ありがたいです。

アトリエに大量に保管されている四國五郎の作品(2023年6月、筆者撮影)
アトリエに大量に保管されている四國五郎の作品(2023年6月、筆者撮影)

かつて暮らした市営アパートで、狭い部屋に親父の絵や画材道具がいっぱいで365日油絵のにおいの中にいることについて、僕がぐちぐち言うと「そんなつまらんことで怒るな」と父は言った。「世の中にはもっと悪い人間がいる。誰かわかるか」というので「わからん」と返すと「それは戦争を起こすやつだ」って。「戦争を起こそうとするやつらに対して本気で怒れ」と。こっちは「は?」ですよね。

でも、親父が死んだ後、いろんなことを思い出しているうちにハッとする。やっぱりずっと、そのことを考えてたんだなと。子どもが分かろうが分かるまいが、とにかく言っておきたかったんだろうなと。

広島では戦争が原爆を中心に語られます。けれども、父は戦争そのものを伝えようとした。そして、残した作品が今「お前はどう生きるのだ」と僕に問うているように感じるのです。

今も将来も「ヒロシマ」と向き合うことは、死者と向き合うことだ。無辜の人を死者たらしめた暴力と、それを引き起こした愚かな軍人や政治家たちと、そして、それを受け入れ推し進めた日本の軍国主義に向き合うことだ。

               ー四國光・著『反戦平和の詩画人 四國五郎』より

展示会に並んだ「辻詩」の数々を見つめる四國光さん(筆者撮影)
展示会に並んだ「辻詩」の数々を見つめる四國光さん(筆者撮影)

フリーランス記者

銀行員2年、全国紙記者19年を経て、2021年からフリーランスの取材者・執筆者。広島在住。生まれは広島。育ちは香港、アメリカ、東京など。地方都市での子育てを楽しみながら日々暮らしています。「氷河期世代」ど真ん中。

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