南野拓実にとってリオ五輪とは何だったのか。時代とともに変化する「五輪の価値」
勝ち点4を取りながら1次リーグ敗退
今から4年前の2016年8月4日。手倉森誠監督(現長崎監督)率いるU-23日本代表はアマゾン川最下流にある河港都市・マナウスでU-23ナイジェリア代表とリオデジャネイロ五輪初戦を戦っていた。
開始早々に失点した日本はオーバーエージ枠のエースFW興梠慎三(浦和)が同点弾を挙げたが、1分後に失点。南野拓実(リバプール)が2度目の同点弾を決めたところまでは拮抗した戦いを見せていた。しかし、ナイジェリアの2点目を挙げたオグヘネカロ・エテボ(ヘタフェ)に3点目を奪われてから一気に流れを持っていかれる。後半にもエテボに2ゴールを追加され、5-2になった時点で勝負の行方はほぼ決まっていた。終盤になって浅野拓磨(パルチザン)と鈴木武蔵(札幌)が追い上げ、5-4まで詰め寄ったものの、万事休す。初戦黒星スタートという最悪のシナリオを余儀なくされた。
短期決戦の世界大会は初戦の結果が大きく響く。3日後の第2戦・U-23コロンビア戦は何とか立て直して2-2と勝ち点1を拾い、10日の最終戦でU-23スウェーデン戦を1-0で勝利したものの、勝ち点4では足りなかった。ナイジェリア、コロンビアを下回った手倉森ジャパンは3位で1次リーグ敗退が決定。選手たちは涙を飲んだのである。
アジアを制したリオ世代の代表格・南野
93年1月1日生まれ以降の「リオ世代」への期待は非常に大きかった。というのも、彼らは同年1月のアジア最終予選(AFC・U-23選手権=カタール)で王者に輝いていたからだ。この時点ですでに欧州組だった久保裕也(シンシナティ)や南野筆頭に、A代表経験のある遠藤航(シュツットガルト)や浅野もいたし、U-17世代で世界8強メンバーとなった室屋成(FC東京)や植田直道(セルクル・ブルージュ)、岩波拓也(浦和)、中島翔哉(ポルト)、鈴木のように下の年代から昇格してきたメンバーも多数いた。北京五輪代表を率いた反町康治監督(日本サッカー協会技術委員長)が重要だと指摘した「若年層での国際経験」をリオ世代の主要選手たちは備えていた。それも大きなアドバンテージだったと言っていい。
その代表格である南野が2019年末、オーストリアの名門、レッドブル・ザルツブルクから欧州王者・リバプールに移籍したのは、周知の事実だろう。U-20ワールドカップこそ、最終予選・北朝鮮戦(ネピドー)での自らのPK失敗によって逃したものの、U-17、五輪と2度の年代別国際大会を経験し、20歳になる直前に海外移籍に踏み切った彼は「日本の育成モデルの成功例」と見ていいのではないか。
五輪後に強いられたクラブでの苦境
ただ、その南野にとっても、五輪だけは「大きな飛躍の場になった」とは言い切れない部分があった。2016年夏の段階で南野はザルツブルクの一員で、シーズン開幕直後の7~8月に長期間チームを離れることは、大きなリスクが伴ったからだ。実際、彼は大会後のシーズン前半戦はクラブで思うように試合出場機会を得られなかった。
「シーズン最初の10試合くらい、丸々五輪で抜けたし、そこでロスはありましたね。チームがUEFAチャンピオンズリーグ(CL)に向けての大事な試合をこなしている中で、自分がいなかったのは、マイナスもあったと思います。試合に出られない状況になってからは試行錯誤を続けてました。たぶん守備の部分で監督の求めるレベルに足りないところがあったんじゃないかな。状況を変えるには、どうしても結果が必要。前のシーズンも2ケタゴールを取っているし、数字を残すことが大事。『コンスタントに得点を取れる選手』だと証明するしかないと思います」
ハリルジャパン定着も叶わず
2016年12月、ザルツブルクで取材にインタビューに応じてくれた際、彼は「五輪による出遅れ」の厳しさに苦しんでいた。11月頃から徐々に出場時間は増えてきていたが、15-16シーズンにリーグ32試合出場10ゴールをマークした選手にしてみれば、不完全燃焼感が強かった。そこから一気に巻き返して16-17シーズンも2ケタ得点を挙げたものの、この段階で欧州ビッグクラブへのステップアップは叶わず、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督(現モロッコ代表監督)率いるA代表に呼ばれることもなかった。
当時所属していたスイス1部・ヤングボーイズ側の事情によって五輪出場が叶わず、その悔しさをバネに2016年夏以降、ブレイクしてA代表入りし、2017年1月にベルギーの強豪・ヘントに買われた久保とは対照的な状況を強いられた。今となっては、南野は名門・リバプールの一員かつA代表のエースになるなど、2人の立場は明暗を分けているが、五輪直後はむしろ彼の方が苦しんでいた。
「五輪=A代表昇格の約束手形」ではない
そう考えると「五輪=直後のA代表昇格の約束手形」という図式が必ずしも成り立つわけではないし、「世界で名を挙げるチャンス」になるとも言い切れない。場合によっては南野のように「所属クラブでポジションを失うリスク」になってしまう恐れもある。「五輪が全て」だと考え、燃え尽き症候群にまで陥ったという96年アトランタから20年。日本の若いサッカー選手にとっての五輪の価値は徐々に変化し、リオ世代の頃には「成長の1つのきっかけ」という捉え方になっていたと言ってもいいだろう。
ブラジルに赴きながら、試合出場機会を得られずに終わった岩波拓也(浦和)が「自分にとって五輪は悔しい思いをした舞台。選んでもらった喜びはありましたけど、試合に出れなかった悔しさを忘れてはいないし、その気持ちをずっと持ち続けてプレーしています」と4年経った今も屈辱感を抱き続けていることを明かしたように、五輪というのが「若手の大きな節目」であることは変わらない。ただ、重要なのは五輪に行ったか行かなかったかという事実ではない。メンバー入りしようがしまいが、五輪を目指して同世代の仲間と切磋琢磨した経験をその後のキャリアにどう生かすか…。それが何よりも肝心なのだ。
森保ジャパンの中核世代。さらなる飛躍を!
リオ世代からは五輪落選組の橋本拳人(FC東京)や三浦弦太(G大阪)、伊東純也(ゲンク)、鎌田大地(フランクフルト)がA代表に上り詰めたのも、落選の悔しさを脳裏に刻み付けてレベルアップに邁進したから。そんな落選組の姿を間の当たりにして、リオ組の南野や中島翔哉、遠藤航らも大きな刺激を受け、ここまでやってきたのだろう。さまざまな海外リーグ挑戦の道が開け、Jリーグでも移籍が活発化した今は、いつどのようなきっかけで大化けする選手が出るか分からない。リオ世代からはそんな現実を強く感じさせられる。
2020年現在で24~27歳のリオ世代はまさに日本サッカーの中核世代。彼らはまだまだ発展途上だ。南野が五輪から4年という歳月を経て世界最高峰クラブに買われ、A代表での絶対的得点源になったように、同じような急激な成長曲線を描く者が出ないとも限らない。97年1月1日以降生まれの東京五輪世代もJリーグや海外で実績を挙げ始めている今、彼らには歩みを止めている余裕はない。新型コロナウイルス感染拡大で世界中のサッカー界が止まっている昨今だが、遠藤航のいるドイツ・ブンデスリーガが5月16日には無観客で再開されることが決まった。そうやって少しずつ実戦の場に戻り、存在価値を高めるリオ世代が続々と現れることを強く願いたい。