【九州三国志】有馬晴信――戦国を駆け抜けたキリシタン大名の光と影!信仰に燃えたその人生と壮絶な最期
有馬晴信と申しますれば、九州は肥前を治めし名門有馬氏の末裔にして、幼き五つの齢にして家督を継がれたお方でございます。
その後、名護屋や長崎にて、キリスト教と南蛮文化に触れたことをきっかけに、洗礼を受け「ドン・プロタジオ」との名を得た晴信。
以後、その信仰心たるや猛烈で、領内のキリシタンを庇護しつつ、教皇や宣教師たちとの深い交流を育まれました。
この姿は、さながら天を仰ぐ一途な樹のごとくでございました。
晴信殿の生涯を彩る大きな出来事と申しますれば、天正十二年(1584年)の沖田畷の戦いが筆頭に挙げられましょう。
この合戦において晴信は、教皇から贈られし聖遺物を胸に掲げ、十字架を描いた軍旗を靡かせながら奮戦されました。
その勇姿たるやまさに烈々たるものでございました。
しかし、戦国の荒波に飲み込まれるように、豊臣秀吉の九州平定が進む中、かつて盟友たる島津氏と袂を分かち、豊臣側へ寝返る決断を余儀なくされたのでございます。
さて、晴信殿は一方において、戦国の武将としての才覚にも長け、朱印船貿易にも積極的に取り組まれました。
領地は戦火に晒されることもしばしばでありましたが、南蛮貿易による利益とキリスト教の加護を糧に領地を潤し、多くのキリシタン信徒を庇護されたのでございます。
この様子を「有馬の地は信仰と商いの繁栄に満ちたり」と讃えられたものでした。
しかし、波乱に満ちた生涯の終盤には、大きな転機が訪れます。
慶長十四年(1609年)、朱印船に関するをトラブルを皮切りに、徳川幕府との軋轢が生じ、さらに謀略に巻き込まれることとなったのでございます。
この事件は、晴信が幕府の信を失う引き金となり、ついには甲斐国に流される身の上と相成りました。
そして、慶長十七年、壮絶なる最期を迎えられることとなりますが、その死にざまについては、日本側の記録とキリシタン側の記録で食い違いがございます。
一説には自害、また一説には家臣による介錯とされ、その真相はいまだ歴史の闇に包まれております。
さらに、晴信の熱心なキリスト教信仰が災いして、後に島原の乱の遠因となることも否めません。
それでもなお、彼の生涯は信仰と戦乱の中で揺るぎなき意志を持ち続けた、壮絶なる一人の戦国武将として語り継がれているのでございます。
晴信の信仰と行動、その光と影が交錯する生涯は、歴史の教訓として私たちに多くの示唆を与えるものでございます。
果たして、彼の胸に抱いた信仰と夢は、どこまで成就したのでしょうか。
その答えは、今もなお歴史の風が語り続けているのかもしれません。